「明治の話題」 柴田宵曲 ちくま学芸文庫 2006年
占ひ p199〜
「小泉八雲は出雲で年取つた占師と知合ひになつた。その後大阪でも遇 ひ、京都でも遇ひ、神戸でも遇つた。武士の没落によつて占師になつたその 老人は、常に旅から旅へ歩いたらしい。八雲はこの人に四度占つて貰つた が、非常によく当つたので恐ろしくなつたと云つてゐる。老人の説によると、 易学そのものはそれに通じた大家の手にかかれば決して間違ひはない、自 分も幾つか誤つた占ひをやつてゐるが、それは或文句や卦(け)の解釈を間 違つた為であるといふのである。 八雲の「霊の日本」はこの老人の占ひに就いて、「私共の未来を見る事ので きるのは不幸である」と云つてゐる。
... 森鴎外が晩年に人から医者にかかることを勧説された時、支那の神卜の 話など引いて、もし自分の死が予知されたところで、結局それが何の役にも 立たぬ、前知せず死ぬのと同一である、仮に名医の診断は間違はぬとして も、それで病人の精神状態がよくなるか悪くなるか、我内部に故障があつて その作用の進む速度を知つたならば、これを知らぬと同様に平気では居ら れぬ、断然名医に見て貰ひたくないと云う結論が生ずる、と云つて謝絶し た。未来を見得るのは不幸であるといふことは八雲と変りがない。... 漱石は学校を出た当時、小石川の或寺に下宿をしてゐた。この寺の和尚 が内職に身の上判断をするといふのは、「琴のそら音」と同じであるが、漱石 が或時笑談半分に自分の未来を和尚に尋ねると、大して悪い事もありませ んなと概説を与えた後、親の死目に逢へぬとか、西へ西へと行く相があると か、いろいろ未来の運命を暗示した。... 和尚の予言通り、漱石は父母の死目に逢へなかつた。先づ松山に行き、 次いで熊本に行き、更にロンドンまで行つたのは、西へ西へであつたに相違 ない。... 「彼岸過迄」に現れた占ひは、大学卒業後、就職運動に奔走してゐる主人 公が、それほど突き詰めた気持でもなしに見て貰ふのだから、頗る軽快なも のであるが、占ひそのものに費された分量はこれが一番多い。純然たる家 庭的な女が、九枚の文銭によつて運命を卜するのは甚だ特色がある。婆さ んの言葉は漠然として捕捉しにくいものであつたが、一転して「貴方は自分 の様な又他人(ひと)の様な、長い様な又短い様な、出る様な又這入る様な ものを持つていらつしやるから、今度事件が起つたら第一にそれを忘れない やうにしなさい」といふ注意を与へた。結局この禅坊主の寝言に似た言葉を 解釈して、それに該当すると思はれるステツキを突いて出ることが、主人公
の運命を拓く鍵になると同時に、「彼岸過迄」前半の一つの山になつてゐ る。」
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2021年06月27日
身の将来を知るのは不幸
posted by Fukutake at 08:21| 日記
本当の自分の死
「ヨーロッパ墓地めぐり」 養老孟司 「考える人」季刊誌2015年 No.54より
p175〜
「現代の日本では、死に関する態度が混迷しているように見える。七十年前までは、 そこには少なくとも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。 だから神風特別攻撃隊だった。戦後はむろんそれが逆転した。自己実現、本当の自 分、個性を追求するようになった。その典型はアメリカの文化であろう。そのアメリカ の脳科学がなにを見つけたか。ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳なのである。つま り一人でものを考えたり、集中して作業をする時の設定ではなく、だれか他人の相手 をするときに働く部分が活性化している。それは日常でもわかるはずである。ものを 考えている、あるいは集中してなにかをしているときは、話しかけられたら迷惑であ る。でもなにもしておらず、ボンヤリしているときに話しかけられたら、「待ってました」 であろう。新生児の脳では生後二日目にはもはや社会脳の設定が見られるという。 新生児にとって重要なのは母親以外にない。それなら脳ミソがはじめから社会的設 定になっていて不思議はない。ものを考える能力は、おそらくそれに伴って、偶然に、 あるいはやむを得ず、発達してきたであろう。その証拠に、霊長類では大きな社会集 団を作る種ほど、脳の発達がいいことが以前から知られている。 その人独特の思想などというものはない。それは以前から指摘してきた。他人が理 解しない限り、どのような思想も定義により意味を持たない。社会脳がヒトの脳を前提 だとすれば、それで当然だということになる。ヒトに伝えるために考えている。
ファーブ ルは虫ばかり見ていたが、最終的には『昆虫記』を書いた。日本人がこれだけ読むと は、ファーブル本人は夢にも思わなかったに違いない。しかし十九世紀のフランスの 田舎の爺さんの追憶記を現代の日本人が喜んで読む。まことに脳は社会脳だという しかないのである。 個人や個性、自分探しを批判すると、引っかかる人がある。それは当然であろう。自 分がなくては、そもそもどうしようもない。しかしその自分といえば、死ぬまではあるに 決まっている。あるに決まっているものを、取り立てていうのは、なにか裏に事情があ る。自分探しという以上は、現存する自分は仮の自分である。そ れはそれでいいの で、なぜならいつだってヒトは仮の姿といえばそうだからである。しかし仮なんだから 「本当の自分ではない」という主張は裏には「本当の自分が存在し、それにはもっと価 値があるはずだ」ということであろう。その価値はだからあらかじめ基本的人権として 定められている。それ以上望むのは本人の勝手である。 しかしその「仮の自分」を設定すると、人生そのものが仮になってしまう。それを続け ていると、死ぬ頃になって、まだ死にたくないとわめくことになる。それまで「仮の自分 が仮にしか生きていなかった」のだから、それで当然であろう。」
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死ぬという覚悟
p175〜
「現代の日本では、死に関する態度が混迷しているように見える。七十年前までは、 そこには少なくとも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。 だから神風特別攻撃隊だった。戦後はむろんそれが逆転した。自己実現、本当の自 分、個性を追求するようになった。その典型はアメリカの文化であろう。そのアメリカ の脳科学がなにを見つけたか。ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳なのである。つま り一人でものを考えたり、集中して作業をする時の設定ではなく、だれか他人の相手 をするときに働く部分が活性化している。それは日常でもわかるはずである。ものを 考えている、あるいは集中してなにかをしているときは、話しかけられたら迷惑であ る。でもなにもしておらず、ボンヤリしているときに話しかけられたら、「待ってました」 であろう。新生児の脳では生後二日目にはもはや社会脳の設定が見られるという。 新生児にとって重要なのは母親以外にない。それなら脳ミソがはじめから社会的設 定になっていて不思議はない。ものを考える能力は、おそらくそれに伴って、偶然に、 あるいはやむを得ず、発達してきたであろう。その証拠に、霊長類では大きな社会集 団を作る種ほど、脳の発達がいいことが以前から知られている。 その人独特の思想などというものはない。それは以前から指摘してきた。他人が理 解しない限り、どのような思想も定義により意味を持たない。社会脳がヒトの脳を前提 だとすれば、それで当然だということになる。ヒトに伝えるために考えている。
ファーブ ルは虫ばかり見ていたが、最終的には『昆虫記』を書いた。日本人がこれだけ読むと は、ファーブル本人は夢にも思わなかったに違いない。しかし十九世紀のフランスの 田舎の爺さんの追憶記を現代の日本人が喜んで読む。まことに脳は社会脳だという しかないのである。 個人や個性、自分探しを批判すると、引っかかる人がある。それは当然であろう。自 分がなくては、そもそもどうしようもない。しかしその自分といえば、死ぬまではあるに 決まっている。あるに決まっているものを、取り立てていうのは、なにか裏に事情があ る。自分探しという以上は、現存する自分は仮の自分である。そ れはそれでいいの で、なぜならいつだってヒトは仮の姿といえばそうだからである。しかし仮なんだから 「本当の自分ではない」という主張は裏には「本当の自分が存在し、それにはもっと価 値があるはずだ」ということであろう。その価値はだからあらかじめ基本的人権として 定められている。それ以上望むのは本人の勝手である。 しかしその「仮の自分」を設定すると、人生そのものが仮になってしまう。それを続け ていると、死ぬ頃になって、まだ死にたくないとわめくことになる。それまで「仮の自分 が仮にしか生きていなかった」のだから、それで当然であろう。」
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死ぬという覚悟
posted by Fukutake at 08:14| 日記
2021年06月26日
語呂盤
「小林秀雄全作品26」信ずることと知ること 新潮社 平成十六年
「語呂盤(ごろばん)」 p119〜
「…ベンダサンという人が、「日本人とユダヤ人」という本を書いた。ずいぶん本が売れたそうだ。あれの中に言葉の問題をちょっと書いてあるが、あれは面白いと、僕は思いましたね。ベンダサンは「語呂盤」という言葉を使っているんだよ。そろばんに日本人は非常に堪能だ。計算を意識的にしなくても、いや、むしろしない方が答えがうまく出て来る。そういうことは絶対に外国人には考えられないことだ。つまり日本人は暗算の天才だと言うのだ。それと同じように、日本語の扱いには語呂盤と言っていいものがあるんだ。その語呂盤で、言葉の珠を何も考えずにパチパチやっていれば、ペラペラ喋ることが出来る。これは日本語というものの構造から来ていることで、西洋人にはとても考えられないところがあると言うのだ。
日本人は数の訓練はしているが、言葉の訓練となるとまるでしていない。特に会話の訓練の伝統はない。この場合ベンダサンの言う訓練とは、日本のしつけとは違うのだよ。会話のしつけはあるが、訓練はない。母親が子供に「ちゃんと、おっしゃい」と言う時の「ちゃんと」は英語の「クリヤー」ではない。行儀よく発音しろという意味だ。この訓練とは、たとえばフランス語の作文(テーム、theme)の意味だろう。フランス語の教育におけるテームの重大性というものは、とても日本では考えられぬということを、以前パリにいた時、森有正君がしきりに言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりとわかった気がした。言葉は、ロゴスだが、ロゴスには計算という意味があるのだそうだ。だから、西洋人には文章とは或る意味で言葉の数式だとベンダサンは言っている。なるほどだと思った。日本では作文とは美文を作ることだが、向こうで作文とは計算の正確を期するということなのだ。
ところで、この言葉の数式の代わりに、語呂盤を日本人は持っているというわけで、そこには驚くほど単語が珠になって詰めこまれ、これを無心にパチパチやることが、日本人の思考の型を作っている。ここから夥しい空論、珍論が生まれて来るが、カンに頼るという他はないゴロバンの名人は、また驚くほど現実に即した具体的な結論を引出して来る。もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。…」
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日本語は話し言葉。
「語呂盤(ごろばん)」 p119〜
「…ベンダサンという人が、「日本人とユダヤ人」という本を書いた。ずいぶん本が売れたそうだ。あれの中に言葉の問題をちょっと書いてあるが、あれは面白いと、僕は思いましたね。ベンダサンは「語呂盤」という言葉を使っているんだよ。そろばんに日本人は非常に堪能だ。計算を意識的にしなくても、いや、むしろしない方が答えがうまく出て来る。そういうことは絶対に外国人には考えられないことだ。つまり日本人は暗算の天才だと言うのだ。それと同じように、日本語の扱いには語呂盤と言っていいものがあるんだ。その語呂盤で、言葉の珠を何も考えずにパチパチやっていれば、ペラペラ喋ることが出来る。これは日本語というものの構造から来ていることで、西洋人にはとても考えられないところがあると言うのだ。
日本人は数の訓練はしているが、言葉の訓練となるとまるでしていない。特に会話の訓練の伝統はない。この場合ベンダサンの言う訓練とは、日本のしつけとは違うのだよ。会話のしつけはあるが、訓練はない。母親が子供に「ちゃんと、おっしゃい」と言う時の「ちゃんと」は英語の「クリヤー」ではない。行儀よく発音しろという意味だ。この訓練とは、たとえばフランス語の作文(テーム、theme)の意味だろう。フランス語の教育におけるテームの重大性というものは、とても日本では考えられぬということを、以前パリにいた時、森有正君がしきりに言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりとわかった気がした。言葉は、ロゴスだが、ロゴスには計算という意味があるのだそうだ。だから、西洋人には文章とは或る意味で言葉の数式だとベンダサンは言っている。なるほどだと思った。日本では作文とは美文を作ることだが、向こうで作文とは計算の正確を期するということなのだ。
ところで、この言葉の数式の代わりに、語呂盤を日本人は持っているというわけで、そこには驚くほど単語が珠になって詰めこまれ、これを無心にパチパチやることが、日本人の思考の型を作っている。ここから夥しい空論、珍論が生まれて来るが、カンに頼るという他はないゴロバンの名人は、また驚くほど現実に即した具体的な結論を引出して来る。もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。…」
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日本語は話し言葉。
posted by Fukutake at 06:06| 日記