2021年06月29日

鼎は所有者次第

「中国の思想 第11巻 左伝」 徳間書房

鼎の軽重 p189〜

 「陸渾(りくこん)地方(河南省陸渾県)の戎を伐った楚の荘王は、そのまま軍を洛水のほとりに進め、周の国境でこれみよがしの示威をおこなった。
 周の定王は大夫王孫満を使者として差しむけ、その功をねぎらわせた。
 その会見の席上、荘王は周王室に伝わる鼎のことを話題に持ち出し、その大小、軽重をたずねた。
「鼎の価値は、所有者の徳しだいで決まるものであって、鼎自体の大小、軽重とは無関係であります」といって、使者の王孫満はきり返した。「むかし、夏王の徳治が天下に行き届いていた時代、遠方の諸国に命じてその地棲息する怪物の類を描いた模様を献上させたことがありました。夏王はこの献上物が届くと、さらに九州の長官に命じて鼎の材料集めさせ、その材料でこれらの怪物をかたどった鼎を鋳造させたのです。こうして人民にありとあらゆる怪物の姿をあらかじめ示すとともに、その魔性の恐ろしさを周知徹底させたおかげで、人民は沼沢山林に踏み入っても、魔物にも逢わず、山川の悪病神にとりつかれる心配もなかったのです。かくて夏王の徳は上下をしっくりと一致させ、天佑をさずけられました。
 しかるにその後桀王が現れて無道を行ったため、この鼎は夏から殷に移りました。さらに六百年たち、紂王が現れて暴虐にふるまうと、この鼎は殷から周に移ったのです。
 つまり、鼎の軽重は所有者の徳しだいで決まります。鼎自体は小さくとも、所有者が明徳の持ち主であれば、鼎はどっしり腰を据えて、いくら他へ移そうとしても移せません。反対に、鼎自体は大きくとも、所有者がよこしまであれば、それは軽々と他へ移ってしまいます。
 明徳の持ち主が授かる天佑にも、おのずから限度があります。かつて成王がこの鼎を郊蓐(こうじょく、周都)に安置して、周の将来を占ったところ、三十世、七百年は続くという託宣でありました。これが天の定めた限度であります。してみれば、今日、周王の徳は衰えたとは申せ、天命はまだ改まったわけではありません。したがってまだ鼎の軽重を問われるときではないと存じます。」

「威勢赫赫たる荘王にぐうの音も出させなかった王孫満。周の王室衰えたりといえども、なお人ありというべきである。」

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posted by Fukutake at 07:19| 日記

2021年06月28日

新聞の不都合ワード

「雀の猫まくら」 群ようこ 新潮文庫 平成十年

p218〜

 「漫画家の石ノ森章太郎氏逝去。私は子供のときに、彼が書いた「マンガ家入門」という本を買い、トレージングペーパーで、「龍神沼」の絵などを写しとったものだった。漫画家は作家よりも、もっとハードな仕事なのだろう。「消えたマンガ家」を読んでも、漫画家は一発大当たりすれば、一攫千金も夢ではないが、それによって失うものがとても多い職業のようだ。ある人は生命を失い、ある人は平常心を失う。作家よりも若い年代でデビューしたり、出版社のかかえこみ作戦にも、要因があるのかもしれない。
 母親が新築した家に引っ越すときに、うさぎと鳥をどうやって運ぶかを電話で相談する。電車では運べないので、ペットショップのお姉さんと相談した結果、業者のトラックに乗せてもらうという。
「それで大丈夫なのかしら」と私は心配になる。
 近所の書店に本を頼んでいて、今日あたり届くはずなのだが、行ってみたら注文してなかったと間抜けなことをいう。とにかくすぐ注文しなおしてくれるようにと頼んだら、折り返し電話があり、実は注文済みで、少しこちらに届くのが遅れるだけだという。わけがわからない。
「とにかく本が届いたら連絡して下さい」といって帰ってくる。
 またN新聞でのチェックが入り、あまりわけのわからない理由なので、「もう何があろうとやめるので、上司にそういっておいて下さい」と担当者にいう。私が知りたいのは、いったい誰がそういう下らない言葉のチェックをしているかということだ。担当者に聞くと、「名前も顔もわからない誰か」だという。あまりにばかばかしすぎて話にならない。彼は「正直いって、これから続けていただいても、ご迷惑をおかけすると思うので」といっていた。K社に電話をし、これまでのいきさつを全部話して、「連載はやめます」と報告する。K社の人も呆れ返り、怒っていた。新聞社は文字を扱っていながら、私の感覚とは全く違う媒体で、私には理解できない。昨年、新聞小説の連載をやったが、小説でも言葉のチェックがあった。「出戻り」もいけないのだ。N新聞では濃厚なラブシーンが出てくる小説などを連載しているのに、なんて「おばさん」や「面接官のおやじ」や「頭の悪そうなおねえちゃん」がいけないのかわからない。絶対に新聞の仕事はやらないことにする。頼むときは口先でいいことばかりいって、結局はすぐに保身にまわろうとするから、N新聞の連載をやめると決まったとたん、とっても気分が明るくなり、他の原稿をじゃんじゃん書く。」

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posted by Fukutake at 11:09| 日記

均田法と荘園制

「宮崎市定全集 17」 中国文明 岩波書店 1993年

食糧から見た中国史 p53〜

「後漢の末に宮中の宦官が横暴を極めたのは史上に有名な事実であるが、但し、これには一応の理由が考えられる。それは宦官に側からいえば、租税としての穀物供出を渋る悪徳地主を懲らしめてやるという意味が一方にはあったものと思われる。とまれ宦官が推薦した地方官と、土地の豪族とは至る所で衝突した。そしてこの衝突から、後漢の天下は大混乱に陥って了った。

後漢末の大混乱を鎮圧した曹操の成功は、裏からいえば彼の食糧政策の成功であった。彼は最も地方豪族の間の人心を収攬するに意を用い、その為には努めて土地にかかる租税を軽くした。併し、一方に戦争が絶え間なく継続するので、どうしても軍隊を養う兵糧が必要である。そこで考えた揚句に採用したのが屯田策である。戦乱で荒廃した土地を収めて国有とし、これに灌漑を施し、軍人に一定面積を与えて耕作させ、生産物の約五割を年貢として出させる。いい換えれば彼自身が荘園を持つことになったのである。彼が中原の群雄を平定することが出来たのは、この屯田によって糧食が豊富であった為であった。
 彼の屯田策は、彼に対立する蜀、及び呉でも採用された。豪族の機嫌を損わずに、富国強兵を計ろうとすれば、勢い君主自身が荘園を持ち、軍費の為に地主に迷惑をかけぬようにするより外はない。蜀は四川の肥沃な平野を領有したが、生産の点でも人口の上でも、黄河流域の平原全体を掩有した魏には到底及ばない。諸葛亮が魏の内訌に乗じて兵を長安に進めたが、大決戦を行うことが出来ず、いつも失敗に終わったのは、兵糧を運ぶ輸送路が長過ぎて、軍隊の糧食が続かなかった為である。魏の実権が司馬氏の手に帰し、司馬氏の権力が確立すると、やがて蜀は大勢に抗し切れずに滅んで了った。呉に拠った揚子江に中流下流の地は未だ開発が十分に進まないで、その国力は到底、黄河沿岸の中原には及ばない。併し、それだけ発展性のある土地なので、一旦、呉は司馬氏の晋に亡ぼされたが、軈(やが)てその晋が北方民族の侵入により洛陽を陥れられると南に逃れ、呉の旧領土に立籠って東晋となった。

 以後六朝時代を通じて、南北共に戦争が絶えず、土地が荒廃して政府も人民も共に食糧の不足に苦しんだ。特に北朝には異民族が侵入して戦禍が大きかっただけ、土地の荒廃も甚しく、歴代の君主は益々君主所有の荘園を強化して食糧の充実を計らねばならなかった。北魏の孝文帝や、その後を受けた北斉・北周の均田法と称せられるものは、かかる政策の現れであり、土地国有というのは実は天下の土地を君主の荘園に化することを意味したであるからかかる君主の荘園に対立する豪族の荘園も、矢張りその存在を認められていたので、各王朝の均田法に於いて、常に王公貴人に対して、広大な土地私有を許しているのである。均田法の土地国有主義には大きな抜け道が開いていた。」
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posted by Fukutake at 10:57| 日記