2021年06月30日

柔術

「東の国から(下)」−新しい日本における幻想と研究− ラフカディオ・ヘルン
平井呈一訳 岩波文庫

 柔術 より p37〜

 「いったい、柔術というものは、これは、むかしのサムライが、えものを持たずに相手と戦った術なのである。柔術について何も知らない門外漢が見たら、ちょっとレスリングみたいに見える。かりに諸君が、「瑞邦館」に稽古がはじまっているときに、ひょっくりそこへはいって行ったとする。諸君はそこに、一団の生徒がぐるっとまわりを取り巻いたそのまん中のところで、十人か二十人ぐらいの、からだのしなやかな若い生徒たちが、素足素手で、おたがいに組んずほぐれつしながら、畳の上で相手を投げたおしている光景を見られるだろう。そのとき、かならず諸君が奇妙におもわれることは、室内が死んだように、声ひとつしないことだろう。ひとことも物を喋っているものがない。もちろん、やんやと囃したてたり、興にのったり、そんなそぶりをするものは、けぶりにもいない。にやにや笑っているものさえいないのである。絶対の平静自若、−−これが柔術道場の鉄則で、厳格に規則できめられていることなのである。それにしても、部屋ぜんたいのこの平静さ、そして、これだけの人数のものが、みな息を呑んでしーんと静まりかえっている光景、これはとにかく、諸君に偉観だという印象をあたえることは請合いである。

 西洋のレスリングをやる本職の力士が見たら、まだほかに、いろいろ目につくこともあるだろうと思う。たとえば、この若い連中が、自分の力を出すのに、ひじょうに慎重であるということや、それから、掴んだり、おさえたり、投げたりするそのわざが、いっぷう変わった、きわどい技であることなどに、気がつくにちがいない。その慎重さは、ひじょうに修練をつんだ上での慎重さなのだが、総体からみると、ずいぶん危険の多い演武のように思われて。おそらく、西洋のレスリング士がこれを見たら、なんとかもっと、西洋流の「科学的」なルールを採り入れたらどうなんだと、ちょっとおせっかいを入れたくなるにちがいない。
 もっとも、稽古ではなく、真剣の勝負となると、このわざは、西洋のレスリング士がただちょっと見たぐらいで、ははあと当推量をする以上に、じっさいは、ずいぶんと危険の多い技なのである。道場にひかえている師範格の人などは、ちょっと見はいかにも痩躯軽身にみえるけれども、どうしてどうして、普通のレスリング士なんぞだったら、まず二分間で片輪にされてしまうだろう。柔術は、けっして見せるためのわざでもないし見物人にわざを見せるための修練でもないのである。それは、もっとも厳密な意味における自衛術であり、戦術なのだ。その道の達人ともいわれる人になると、相手が術を知らないやつだったら、それこそ、あっというまに、相手の戦闘力を完全にうばってしまうだけの腕前をもっている。かくべつこれという力をつかわずに、なにかおそろしい早業で、いきなり相手の肩を脱臼させ、関節をはずし、腱を切り、骨なんか折っぺしょってしまう。こういう人になると、これはもう、ただのスポーツマンとか、力持ちなんていう段ではない。一個の解剖学者でもあるのである。またそういう達人になると、電撃的早業でもって、相手をひとおもいにパッと殺してしまう急所もこころえている。もっとも、この命とりの秘術は、それをみだりに用いることがほとんどできないような条件がそなわっているばあいでなければ、けっして人には伝授しないという、固い誓約が誓わされてある。完全な自制心をもっている人で、ふだんから身持ちのうえでも、とかくの難がない人だけに授けされるというのが、むかしからの厳としたしきたりになっているのである。」

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(八雲の赴任した熊本第五高等学校の校長は、嘉納治五郎であった。)旧漢字を当用漢字に直しました。
posted by Fukutake at 07:05| 日記

人生の使い方

「人生の短さについて」 セネカ著 茂手木元蔵訳 岩波文庫

 p9〜

 「大部分の人間たちは死すべき身でありながら、自然の意地悪さを嘆いている。その理由は、われわれが短い一生に生まれついているうえ、われわれに与えられたこの短い期間でさえも速やかに急いで走り去ってしまうから、ごく僅かな人を除いて他の人々は、人生の用意がなされたとたんに人生に見放されてしまう。というのである。このような、彼らのいわゆる万人に共通な災いに嘆息するのは、単に一般の大衆や無知な群衆だけのことではない。著名な人々さえも、このような気持が嘆きを呼び起こしている。それゆえにこそ、医家の中でも偉大な医家の発言がある。いわく「生は短く術は長し」と。…しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。…

  何ゆえにわれわれは自然に対して不平を言うのか。人生は使い方を知れば長い。だが、世の中は飽くことの知らない貪欲に捕らわれている者もいれば、無駄な苦労をしながら厄介な骨折り仕事に捕らわれている者もある。酒びたりになっている者もあれば、怠けぼけしている者もある。他人の意見に絶えず左右される野心に引きずられて、疲れ果てている者もあれば、商売でしゃにむに儲けたい一心から、国という国、海という海に到るところを利欲の夢に駆り立てられている者もある。絶えず他人に危険を加えることに没頭するか、あるいは自分に危険の加えられることを心配しながら戦争熱に浮かされている者もある。また有難いとも思われれずに高位の者におもねって、自ら屈従に甘んじながら身をすり減らしている者もある。多くの者たちは他人の運命のために努力するか、あるいは自分の運命を嘆くかに関心をもっている。また大多数の者たちは確乎とした目的を追求することもなく、気まぐれで移り気で飽きっぽく軽率に次から次へと新しい計画に飛び込んでいく。或る者は自己の進路を定めることなどには何の興味もなく、怠けたり欠伸をしたりしているうちに運の尽きということになる。…」

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耳が痛い。
posted by Fukutake at 07:00| 日記

2021年06月29日

親の熱意が仇となる

「アラン人生語録」 井沢義雄・杉本秀太郎訳 彌生選書

子供の教育 p68〜

 「ソクラテスはすでにこれを指摘しているが、たとえいかにすぐれた人であっても、父親となると、わが子の教育は十分にできないものである。非常に教育のあるおばあさんの実例を見たことがある。彼女は、孫むすめに計算と綴り字を教えることがついにできずじまいだった。この逆説はいら立たせる。なぜかといば。いつでも両親は先生に熱意が足りないのだと信じがちだから。それゆえ、自分でわが子を教えようとして、熱意だけでは十分でないのをたしかめると、親たちはおどろく。私にいわせれば、それどころではないのだ。熱意こそかえって妨げになる。

 明らかに、教育は、他の技能とかかわりのないひとつの技能である。しかし私はこの技能の手順などというものもまた、決してさほどに信じていない。のみならず。先生がた、それも教育という技能に精通している先生がたが、ヴァイオリンの先生でもラテン語の先生でも、自分の子供に教えるとなると、どうもうまくいかなかったのを私は見ている。教育という技能の力は、われわれがそれを求めている場所には絶対にない。そこよりもっと下の方にあるのだ。礼金をもらっている家庭教師があるとしよう。彼はきちんと時間通りにきて、時間一杯でさっさと帰ってゆく。つぎの家にゆかなければならないからである。ここに現れているのは、曲げえない、同情を知らない秩序なのである。子供が勉強する気になっていようといまいと、そんなことにはまるでお構いなしだ。きまった時間にきちんと姿をみせる先生を、重大な理由もなしに首にはできまい。こうして、授業は必然性の面貌をおびることになる。まさにこれが大事な点だ。というのは、もしもちょっとの間だけ先に延ばせるという望みがちらと顔を出すと、もう子供は決して、本気になり注意をこめて神妙にしているはずがないから。だれしも知っているように、わが子の家庭教師になろうとする父親が完全に時間のドレイになることはない。だから子供はちっとも覚悟をきめない。決して理由をいわぬ規律で少しもしばられていないために、ひと思いに勉強にとびこみ全力を集中しはじめるというあの貴重な習慣を、子供は決して習得しない。子供は策略をめぐらす。ところで、あらゆる教訓のうち主要な教訓、いやもっとつっ込んでいえば、もっとも重要な教訓とは、必然性を前にしては策略をめぐらす余地がない、ということである。「ぜひもない」という、この何でもないコトバの意味をまなんだ人は、もうそれだけで多くを知っているのである。…本を閉じる。ほかの仕事に移る。まさにこのとき、読書はそれ自身のはずみで鳴りひびく。読書はそのとき、一種の不注意によってみごとに成熟しとげるのだ。このことは、おとなより子供においてなお一そう真である。」

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親の熱意が子供を怠惰にする!

posted by Fukutake at 07:23| 日記