「本居宣長(上)」 小林秀雄 新潮文庫 p52〜
「孔子の家が火事になった。「孔子朝ヨリ退(シリゾ)キテ曰ハク、人ヲ傷(ソコ)ナヒタ リヤ、ト。馬ヲ問ワズ」(郷党第十)。宣長曰わく、「馬をとはぬが何のよきことかある。 是まなびの子どもの、孔丘が常人にことなることを、人にしらさむとするあまりに、か へりて孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし」 微生高という正直者で評判の男があった。これにつき、孔子曰わく「孰(タ)レカ微生 高ヲ直シト謂フヤ。或ル人酢ヲ乞フ。諸(コレ)ヲ其ノ鄰リニ乞フテ、而シテ之ニ与フ」 (公冶長第五)。「聖人の教の刻酷なることかくの如し、これらは、ただいささかの事に て、さしも不直といふべきほどの事にあらず、かほどの事をさへ、不直といひて、とが むるは、あまりのことなり」と宣長は言う。
この孔子の言葉を、正直の徳というものは、 微生高のようなだらしのないものではない、と孔子が戒めたものとする。一般の解釈 に反対なのだ。宣長は「聖人の教の刻酷」を言っているのだが、孔丘の刻酷は言わな い。言いたくないのである。この儒家の一般の解釈に、徂徠だけは反対してる(論語 徴、丙)、「詩ヲ学バズ、言ヲ知ラズ」「名を衒(テラ)ヒ、誉ヲ沽(ウ)ル」徒が、孔子も自 分の同類だと早合点しているだけだ、「陋ナル哉」。孔子の言葉は、単なる「反語」で あり、「戯言」であると徂徠は言う。当時としては、奇説とも言うべきものだったが、これ が、宣長の念頭にあったと想像してみても差支えないだろう。 書簡で語られている「論語、先進篇」の話にしても、孔子が深く同感した曾点*の考 えについては、儒家の間で、いろいろな解釈が行われていたのだが、言うまでもなく、 これは、曾点の「浴沂詠帰」という曖昧な返答を、どのような観念の表現と解すれば、 儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか、という問題を出ていな い。宣長がそういう儒家の思想の枠に、全く頓着なく語っているのは、読者が既に見 られた通りである。彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然*とし て嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背 追い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。もし、ここに、儒学者 の解釈を知らぬ間に脱している文学者に味読を感ずるなら、有名な「物のあはれ」の 説の萌芽も、もう此処にある、と言っていいかも知れない。」
曾点* 孔子の弟子、字は皙(せき)、曾皙とも。 喟然* キゼン、嘆息するさま。
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扶桑伝説について
「柳田國男全集 第二十一巻」 筑摩書房 1997年
海上の道 扶桑伝説 p400〜
「後期仏教の西方浄土とは対立して、対岸大陸には夙くから、東方を憧憬する民間信仰が普及して居た。いはゆる扶桑伝説は即ち是で、多分は太陽の海を離るる光景の美しさ貴さから、導かれたものの如く私たちは推測して居る。秦の徐福が童男女三百人をつれて、仙薬を求めて東方の島に渡ったといふことは世に知られ我邦でも熊野の新宮がその居住地であったとか、或は八丈島の人の始めが彼らでは無かったらうかとか、いふ類の雑説が、色々と発生して居るけれども、それは何れもあちらの記録を読んでから後に、考へ出したことだからちつとも当てにならない。ともかくも本国に於いては永遠に行方知れずであり、この遠征によって彼我の交通が、開けたことにはなって居ないのである。
欧陽脩の日本刀の歌は、日本にも夙く伝はって居て、
徐福往くとき書未だ燬けず
逸史百篇今なほ存す 云々
という句などは、私たちもまた記憶するが、こちらの歴史に引比べて見ると、王仁の千字文などよりは是はずつと前のことで、明らかに詩人の空想であったことがすぐに判る。太平の天子が人の世の歓楽に飽き満ちて、そろそろと不老不死の術を恋い焦がれ、終に道士の言に欺かれて無益の探求を企つるに至ったなどは、言わば支那古代の小説の一つの型であって、たまたま其中の特に美しく、且つ奇抜にして人心に投じたものが、永く記伝せられて世に残ったに過ぎぬことは、今日はもう疑ふ人もあるまい。ただそういふ様々の趣向の取合わせの中に於いて、今の言葉でいふならば自然主義、即ち時代の人々が楽しみ聴いて、さもと有りなんと思ひ、又全く無かったこととも言われぬと、心に刻み付けて居たものを拾い上げて見るならば、或いはさういふ中から逆に人類の現実の移動を支配した、古代の社会力とも名づくべきものが、少しづつは窺はれて来るのではないかと思ふのみである。
たとへば東方の、旭日の昇って来る方角に、目に見えぬ蓬莱又は常世といふ仙郷の有ると思ふ考へ方は、この大和島根を始めとして、遠くは西南の列島から、少なくとも台湾の蕃族の一部までに、今日も尚分布して居る。槎(いかだ)に乗って東の海に遊ばんとか、又は東海を踏んで死すあらんのみとか、半ば無意識にも之を口にする人が多かったのは、必ずしも東だけに海をもった大陸の、経験とも言われぬやうに思ふ。いはゆる徐福伝説の伝播と成長とには、少なくとも底には目に見えぬ力があつて、暗々裡に日本諸島の開発に、寄与して居たことは考へられる。」
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海上の道 扶桑伝説 p400〜
「後期仏教の西方浄土とは対立して、対岸大陸には夙くから、東方を憧憬する民間信仰が普及して居た。いはゆる扶桑伝説は即ち是で、多分は太陽の海を離るる光景の美しさ貴さから、導かれたものの如く私たちは推測して居る。秦の徐福が童男女三百人をつれて、仙薬を求めて東方の島に渡ったといふことは世に知られ我邦でも熊野の新宮がその居住地であったとか、或は八丈島の人の始めが彼らでは無かったらうかとか、いふ類の雑説が、色々と発生して居るけれども、それは何れもあちらの記録を読んでから後に、考へ出したことだからちつとも当てにならない。ともかくも本国に於いては永遠に行方知れずであり、この遠征によって彼我の交通が、開けたことにはなって居ないのである。
欧陽脩の日本刀の歌は、日本にも夙く伝はって居て、
徐福往くとき書未だ燬けず
逸史百篇今なほ存す 云々
という句などは、私たちもまた記憶するが、こちらの歴史に引比べて見ると、王仁の千字文などよりは是はずつと前のことで、明らかに詩人の空想であったことがすぐに判る。太平の天子が人の世の歓楽に飽き満ちて、そろそろと不老不死の術を恋い焦がれ、終に道士の言に欺かれて無益の探求を企つるに至ったなどは、言わば支那古代の小説の一つの型であって、たまたま其中の特に美しく、且つ奇抜にして人心に投じたものが、永く記伝せられて世に残ったに過ぎぬことは、今日はもう疑ふ人もあるまい。ただそういふ様々の趣向の取合わせの中に於いて、今の言葉でいふならば自然主義、即ち時代の人々が楽しみ聴いて、さもと有りなんと思ひ、又全く無かったこととも言われぬと、心に刻み付けて居たものを拾い上げて見るならば、或いはさういふ中から逆に人類の現実の移動を支配した、古代の社会力とも名づくべきものが、少しづつは窺はれて来るのではないかと思ふのみである。
たとへば東方の、旭日の昇って来る方角に、目に見えぬ蓬莱又は常世といふ仙郷の有ると思ふ考へ方は、この大和島根を始めとして、遠くは西南の列島から、少なくとも台湾の蕃族の一部までに、今日も尚分布して居る。槎(いかだ)に乗って東の海に遊ばんとか、又は東海を踏んで死すあらんのみとか、半ば無意識にも之を口にする人が多かったのは、必ずしも東だけに海をもった大陸の、経験とも言われぬやうに思ふ。いはゆる徐福伝説の伝播と成長とには、少なくとも底には目に見えぬ力があつて、暗々裡に日本諸島の開発に、寄与して居たことは考へられる。」
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posted by Fukutake at 07:56| 日記