「遠野物語 山の人生」 柳田国男 著 岩波文庫
遠野物語 名誉の猟人 三題 p41〜
「六〇
和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐しばしば出でて雉子を追う。あまり憎ければこれを撃たんと思い狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してある。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。」
「六一
同じ人六角牛(山)に入りて白き鹿に逢えり。白鹿は神なりと言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟りあるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これを蓬(よもぎ)を巻きつけて撃ち放したれど、鹿なお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮らせる者が石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。」
「六二
また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンズ縄をおのれと木のめぐりに三囲(みめぐり)引きめぐらし、鉄砲を竪(たて)に抱えてまどろみしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形の者赤き衣を羽のように羽ばたきして、その木の梢に蔽いかかりたり、すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空(なかぞら)を飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭い、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓い、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人の業を棄つること能わずとよく人に語りたり。」
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山の不思議は無くならない。