2021年05月04日

ロンドンの三島由紀夫

「ロンドン通信」 「三島由紀夫全集31」 新潮社 1975年

p580〜
 「英国文化振興會の招きで、ロンドンへ私がやつて来たのと同時に、ロンドンには春が来て、外套も要らぬ暖かさになつた。
 私は外國の町を、地圖を片手に、丁度犬がオシッコをして道を覚えるやうに、一歩一歩、道筋をたしかめながら歩くのが好きだ。幸いホテルが大英博物館のすぐ裏だから、テームズ河も散歩にほどよい距離にあり、行かうと思へば、ピッカデリー・サーカスへさへ歩いて行ける。着いた午後にはナショナル・ギャレリーまで歩き、三度目の對面ながら、ターナアの「ユリシーズ」、その光、その雲、その眩耀の世界に心を奪はれた。…

 川ぞいにほんの二、三日帆を下ろして止まってゐるやうに見える、クリームいろの帆柱と黒い船體の機帆船は、實はもう永久に出帆することはない。それは南極探検のスコット大尉の船、ディスカヴァリー號であつて、中に入れば、大尉に或るレディーから贈られたスノウ・スキーだの、菓子の屑などがまだそのままに納めてある。…

 ロンドンに着いた朝、私にとつては「金閣寺」の譯者であり。年来の友であるコロンビア大學のアイヴァン・モリス氏夫妻が、ロンドンに来てゐるを知つて、喜んだ。氏の近著の「光源氏の世界」が、ダフ・クーパア賞を受けたその授賞式に出るために来たのださうだ。
 ダフ・クーパア賞とは、戦前に海相をつとめた政治家で、タレイランなどの傳記の作者としても名高いクーパア氏が、死後、ノン・フィクションに限って與へるためにのこした賞で、今年で九回目の受賞の由だが、レイディー・ジョーンズの美しい邸に、二百人の客を集めたその席で、前首相のマクミラン氏がモリス氏に賞を授與したのち、洒脱なスピーチをした。
 「私が若かったとき、ダフ・クーパアも若かつた。幸福な時代だった、特に上流階級にとつては」と、白髪の前首相は感慨深げに言つた。「それはたのしい、幸福な時代だった。その人生のたのしみは永遠に失はれた」…

 モリス氏はこれにこたえて挨拶をし、「紫式部の時代には、京都から五十マイルのところへ行くにも一週間仕事だつたから、私がかうして三千マイル離れたニューヨークから一日で、賞をいただきに飛んで来たときいたら。紫式部は信じてくれないだらうし、また、式部は一向稿料をもらつた形跡がないから、私のことをきいたら恨みに思ふでせう」などと語った末、わざとこの著書に對する無理解な書評を面白く紹介して、お客を笑はせた。…」

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ロンドン散歩

posted by Fukutake at 08:29| 日記