「不便の益」 川上浩司 『BEYOND SMART LIFU』日立京大ラボ より 日本経済新聞出版 2020年
好奇心と問う心を喚起する p108〜からの抜粋。
「… わくわくする気持ち、好奇心なんかも、僕は不便益そのもののように感じています。あえて不便なシチュエーションを作ることは、「何が起こるんだろう」というか好奇心や期待感を発生させる必要条件にもなり得るからです。
JALのマイレージサービスに「どこかにマイル」というユニークな企画商品があります。通常の必要マイル数の半分以下のマイル数で特典航空券(往復)に交換できる代わりに、行き先は旅行者が決めるのではなく、日本国内の四つの候補地の中から航空会社側が決定するという仕組みです。申込から3日以内には、行き先が知らされるそうです。おそらくJALとしては、予約や空席状況を考慮して、シートロスを減らすために発案したんじゃないでしょうか。僕としては、この企画にもう少し捻りを加えると、不便益的に非常に面白くなるかな、と思っています。パスポートだけ持参してもらって空港に集合してもらうとか。期日も行き先も、空港でチケットを渡されるまでまったく知らされないとか、ですね。行き先が国内なのか国外なのかもわからないし、数日の旅になるのか2週間の旅になるのかもわからない。そこまで未知のプラン設定にしてもらうと、もちろん不安も感じるでしょうが、わくわく感がより一層増しそうな気がします。予測できない、先が読めない、というシチュエーションと不便益は相性が良いように感じます。
不思議を解く、という設定にも、不便益はおおいに関係します。昔はね、男の子の多くが、アナログ時計を分解してよく遊んだものでした。目覚まし時計は、どうして指定した時間に鳴るんだろう。この針はなぜ、チクタク規則的に動いているんだろう。不思議に思って裏ブタを開けて分解してみる。すると、ネジがあって、歯車があって、コイルの動線があって……とその構造が子供にも少しずつわかってくる。そういう「どうなっているんだろう?」というおのずと湧き上がる不思議への好奇心、問いかけが、デジタル化の進む今の世の中から消えつつあることに、僕は一抹の寂しさを覚えます。社会がスマートになっていけばいくほど、背後に潜む関係性や不思議はどんどん隠されていき、消えていきます。物事の奥に潜む関係性を理解したい、という気持ちも失われていくんです。物事の裏側、仕組みがわかるということは、ある意味、自分事としての視点が養われるということですよね。それだけでなく、同時に問いを立てたくなる状況も失われてしまう。不思議を問う状況があるほうが、人間って豊かに生活できるのではないかと思います。…」
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未確定な未来を自ら進んで体験する冒険!
2021年05月06日
ある教え子の思い出
「楕円の面積」 産経新聞第一面 「朝晴れエッセー」より 渡邊政治(66)投稿記事
「今はもうなくなったが広島県江田島に海上自衛隊術科学校という学校があった。中学を卒業した生徒を曹候補生として教育する学校である。
私は一時期そこで数学を教えていた。あるとき、楕円の面積を求め方をリポート用紙に書いて提出しなさいと宿題を出した。
提出されたリポートを読むと、ほとんどが今教えている積分を使っていた。私自身その解答になることを予測していた。
だが、ただ一人、円柱を斜めに切ると切り口が楕円になることを利用して解いていた。この解法は中学校でならう相似比が分かっていればできる。積分のような難しい数学を使わなくても良いのだ。
リポートの名前を見て驚いた。いつも授業中、寝ている奴だ。訓練で疲れているのだろうと注意しても怒ることはしなかった。しかしそれが仇となり、数学がからっきしできないようになっていた生徒だ。
くわしくリポートを読むと解法は実にセンスがあり、素晴らしいものだった。意外にも字もきれいだ。和算の大家、関孝和が示した解法と同じだ。
私は彼を呼び、その解法を褒め、ゆっくりでいいから数学も勉強するように言った。話すと中学時代は数学ができたらしい。「なんだ、数学をできなくしてしまったのは俺のせいかよ」と私が言うと、「そんなことはありません」。人懐っこい目をして言った。
卒業すると彼は厳しい訓練をこなし、対潜哨戒機の搭乗員(航空士)となった。
その彼が哨戒機の墜落で、殉職した。その新聞記事を読んだのは県立高校の教員として最初に赴任した学校の職員室だった。」
(産経新聞 文化部長賞 作品)
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「今はもうなくなったが広島県江田島に海上自衛隊術科学校という学校があった。中学を卒業した生徒を曹候補生として教育する学校である。
私は一時期そこで数学を教えていた。あるとき、楕円の面積を求め方をリポート用紙に書いて提出しなさいと宿題を出した。
提出されたリポートを読むと、ほとんどが今教えている積分を使っていた。私自身その解答になることを予測していた。
だが、ただ一人、円柱を斜めに切ると切り口が楕円になることを利用して解いていた。この解法は中学校でならう相似比が分かっていればできる。積分のような難しい数学を使わなくても良いのだ。
リポートの名前を見て驚いた。いつも授業中、寝ている奴だ。訓練で疲れているのだろうと注意しても怒ることはしなかった。しかしそれが仇となり、数学がからっきしできないようになっていた生徒だ。
くわしくリポートを読むと解法は実にセンスがあり、素晴らしいものだった。意外にも字もきれいだ。和算の大家、関孝和が示した解法と同じだ。
私は彼を呼び、その解法を褒め、ゆっくりでいいから数学も勉強するように言った。話すと中学時代は数学ができたらしい。「なんだ、数学をできなくしてしまったのは俺のせいかよ」と私が言うと、「そんなことはありません」。人懐っこい目をして言った。
卒業すると彼は厳しい訓練をこなし、対潜哨戒機の搭乗員(航空士)となった。
その彼が哨戒機の墜落で、殉職した。その新聞記事を読んだのは県立高校の教員として最初に赴任した学校の職員室だった。」
(産経新聞 文化部長賞 作品)
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posted by Fukutake at 09:42| 日記
射撃の要諦
「青年の思索のために」 下村湖人 著 新潮文庫
p116〜
「私が兵隊に行ったころに教わったことで、今でもおりおり思い出すことが、一つある。それは、射撃の場合の眼心手の一致、ということである。
射撃では、照準をする眼の働きと、引金を締める指の働きと、自分の気持ちとが、ぴったり一致して、無意識のうちに弾丸が飛び出すようになるのを、理想としている。もし、「そら、照準が出来た。引金を引くのは今だ。」という工合に、はっきり心に意識するところがあって指を動かすと、いわゆる「ガク引」ということになって、弾丸はめったに的にあたるものではない。これに反して、無念無想の気持ちになり、じっと照準をしながら、右手をじりじりと握りしめて行くうちに、思わず、ずどんと飛び出した弾丸なら、たといその瞬間、照準が狂っていた、と思うような場合でも、案外いい点がとれるもので、それは実際不思議なくらいである。
とにかく、射撃では、自分の意志を強く働かして、無理な細工をやることは、絶対に禁物である。自分と鉄砲とが別々のもので、自分の心で鉄砲を動かしているんだ、といったような、差別意識が強く働いている間は、まだまだ射撃の名手たるには遠い、といわなければならない。自分も、鉄砲も、的も、ただ一つに溶けあった、いわゆる主客一如の境地。この境地にひたりこむように心がけることが、射撃上達のこつである。才気ばしった兵隊よりも、ぼんやりした兵隊の方が、却って射撃が上手だといわれる理由も、恐らくこんなところにあるのだろうと思われる。
…
射撃についていえることは、職業生活や、社会生活についても、また同様にいえることである。功を急いだり、打算が強すぎたり、理論ずくめで押し通そうとしたりすると、とかく仕事に無理が行き、職業と自分とが離ればなれになり、人と自分とがばらばらになって、職業生活にも、社会生活にも、しっくりした気分がなくなってしまう。それでは世の中がうまく行こう道理がない。
で、われわれは、利害を考えたり、理屈をこねまわしたりする前に、職業生活や社会生活に必要だと思われる諸法則を、片っぱしから、つつましく、丹念に実行して、法則を法則と感じないまでに、それらを習熟すべきである。そこに、孔子のいわゆる「心の欲するところに従って矩を踰えず」といったような、主脚一如の自由境が開拓され、職業生活にも、社会生活にも、真の意味の成功が、もたらされるのではあるまいか。」
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自己の弱い頭で判断せず、体験と反省から苦い味をなめつつ徐々に進む。
p116〜
「私が兵隊に行ったころに教わったことで、今でもおりおり思い出すことが、一つある。それは、射撃の場合の眼心手の一致、ということである。
射撃では、照準をする眼の働きと、引金を締める指の働きと、自分の気持ちとが、ぴったり一致して、無意識のうちに弾丸が飛び出すようになるのを、理想としている。もし、「そら、照準が出来た。引金を引くのは今だ。」という工合に、はっきり心に意識するところがあって指を動かすと、いわゆる「ガク引」ということになって、弾丸はめったに的にあたるものではない。これに反して、無念無想の気持ちになり、じっと照準をしながら、右手をじりじりと握りしめて行くうちに、思わず、ずどんと飛び出した弾丸なら、たといその瞬間、照準が狂っていた、と思うような場合でも、案外いい点がとれるもので、それは実際不思議なくらいである。
とにかく、射撃では、自分の意志を強く働かして、無理な細工をやることは、絶対に禁物である。自分と鉄砲とが別々のもので、自分の心で鉄砲を動かしているんだ、といったような、差別意識が強く働いている間は、まだまだ射撃の名手たるには遠い、といわなければならない。自分も、鉄砲も、的も、ただ一つに溶けあった、いわゆる主客一如の境地。この境地にひたりこむように心がけることが、射撃上達のこつである。才気ばしった兵隊よりも、ぼんやりした兵隊の方が、却って射撃が上手だといわれる理由も、恐らくこんなところにあるのだろうと思われる。
…
射撃についていえることは、職業生活や、社会生活についても、また同様にいえることである。功を急いだり、打算が強すぎたり、理論ずくめで押し通そうとしたりすると、とかく仕事に無理が行き、職業と自分とが離ればなれになり、人と自分とがばらばらになって、職業生活にも、社会生活にも、しっくりした気分がなくなってしまう。それでは世の中がうまく行こう道理がない。
で、われわれは、利害を考えたり、理屈をこねまわしたりする前に、職業生活や社会生活に必要だと思われる諸法則を、片っぱしから、つつましく、丹念に実行して、法則を法則と感じないまでに、それらを習熟すべきである。そこに、孔子のいわゆる「心の欲するところに従って矩を踰えず」といったような、主脚一如の自由境が開拓され、職業生活にも、社会生活にも、真の意味の成功が、もたらされるのではあるまいか。」
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自己の弱い頭で判断せず、体験と反省から苦い味をなめつつ徐々に進む。
posted by Fukutake at 08:34| 日記