宮崎市定全集 17 −中国文明−」 岩波書店 1993年
奴隷貿易 p370〜
「欧米近世史は、古代社会に特有な筈の奴隷貿易の黄金時代であった。
西暦十五世紀の末葉、スペインは大西洋を横断して米大陸を発見し、ポルトガルは東に進んでインド洋航路を発見した。
インド洋航路の発見は大成功で、ポルトガルは之によって、一航海に六十倍の純益を挙げたとさえいわれた。東洋の豊富な香料はヨーロッパで運ぶと、少なくとも三、四十倍には売れたのである。
所がアメリカ大陸は、最初の中、発見者スペインに殆ど何物をも与えなかった。そこには銅色のアメリカインディアンが煙草をふかして遊んでいるだけで、金目のものは何も見つからなかった。所が段々奥地に入ってみると、矢張相当開けた文明の社会があって、インカ帝国などの存在していることが知られた。
特にスペイン人を喜ばしたのは、金銀が豊富に使用されている事実であった。此に於いて彼のコステスやピサロの血腥い征服の歴史が始まるのである。侵入者は原住民からの金銀掠奪が一段落つくと、今度は嘗て原住民が金銀を掘り出した鉱山を探して、そこから同様に金銀を採掘しようということになった。すると急に労働力の不足を感じ出して、アフリカの黒人を輸入して奴隷として使役し始めた。
アフリカから米大陸への黒人奴隷輸入は、…西暦一八二〇年頃のある人の計算ではそれ迄に米大陸に輸入された黒人は一億人で、その中五百五十万人が残っているという。すると九千四百五十万人が消耗されて了ったことになる。実に一つの大陸の人口を空にする迄、他の大陸へ人口を注ぎ込んだものなのである。
米大陸に於いて、此等黒人奴隷に対する待遇の苛酷なりしはいう迄もない。南米蘭領ギニアが殊にひどかった。嘗て黒人が謀叛を起こそうとしたという嫌疑のもとに、十一人が捕らえられて、みせしめの為の刑罰が行われた。
その一人は生きながら柱から吊り下げて死ぬに任された。紐で吊られたのではない、鎖の先端につけた鋭い鈎で横腹をつき通して、牛肉のように吊り下げられたのである。二人は小火で焼き殺され、六人の女は八つ裂きにされ、二人の娘は首をちょん切られた。その外一寸した過失でも刑罰は惜しみなく加えられ。僅かに一本の甘蔗黍を盗んで囓ったという廉で、鼻を削がれたり、歯を引き抜かれたりした。欧州人が啜る一杯の珈琲には、黒人の血の数滴が混じっていない場合はないといわれたものである。」
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粗暴、野蛮、極悪非道の血が本性の西洋人。
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2021年05月17日
三島由紀夫の遠野物語
「三島由紀夫全集 34 評論 X」 新潮社 1976年 柳田國男「遠野物語*」ー名著再發見 p400〜
「柳田氏の學問的良心は疑ひやうがないから、ここ*に収められた無 數の挿話は、ファクトとしての客觀性に於いて、間然とするところがな い。これがこの本のふしぎなところである。著者は採訪された話につい て何らの解釋を加へない。従つて、これはいはば、民俗學の原料集積所 であり、材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね 方、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。データそのもので あるが、同時に文學だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話 も、眞實性、信ぴょう性の保證はないのに、そのやうに語られたことは たしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、 それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは、學 問の對象である。しかし、これらの原材料は、一面から見れば、言葉以 外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野とい ふ山村が實存するのと同じ程度に、日本語といふものが實存し、傳承の 手段として用ひられるのが言葉のみであれば、すでに「文學」がそこ に、輕く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の高ノ 映してゐるのである。
さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読 んで、「遠野物語」の新しい讀み方を教へられた。氏はこの著書の據る べき原点を、「遠野物語」と「古事記」に二冊に限つてゐるのである。 近代の民間伝傳承と、古代のいはば壮麗化された民間傳承とを両端に据 ゑ、人間の「自己幻想」と「對幻想」と「共同幻想」の三つの柱を立て て、社會構成論の新體系を樹ててゐるのである。そこには又、 「ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定 してみせるることができる。人間の自己幻想(または對幻想)が極限の かたちで共同幻想に<侵略>された状態を<死>と呼ぶというふうに。 <死>の様式が文化空間のひとつの様式になつてあらわれるのはそのた めである」(一一三ページ) などといふ、きわめて鋭い創見が見られる。 さういへば、「遠野物語」には、無數の死がそつけなく語られてゐ る。民俗學はその發祥からして屍臭の漂ふ學問であつた。死と共同體を ぬきにして、傳承を語ることはできない。このことは、近代現代文學の 本質的孤立に深い衝撃を與へるのである。
しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも學問的素人として、一つの文學として玩味することのほうを選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、眞實の刃物が無造作に抜き身で置かれてゐる。その一つの例は、第十一話であらう。嫁と折合ひの悪い母が息子に殺される話は、現代でも時折三面記事に散
見するから、それ自體、決して遠く忘れ去られた物語ではない。しかしメリメのやうな殘酷な簡潔さで描かれたこの第十一話は、人間の血縁とは何かといふ神話的問題についての、もつともリアリスティックな例證
になるであらう。」
(初出)讀賣新聞・昭和四十五年六月十二日「名著再發見」
「柳田氏の學問的良心は疑ひやうがないから、ここ*に収められた無 數の挿話は、ファクトとしての客觀性に於いて、間然とするところがな い。これがこの本のふしぎなところである。著者は採訪された話につい て何らの解釋を加へない。従つて、これはいはば、民俗學の原料集積所 であり、材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね 方、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。データそのもので あるが、同時に文學だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話 も、眞實性、信ぴょう性の保證はないのに、そのやうに語られたことは たしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、 それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは、學 問の對象である。しかし、これらの原材料は、一面から見れば、言葉以 外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野とい ふ山村が實存するのと同じ程度に、日本語といふものが實存し、傳承の 手段として用ひられるのが言葉のみであれば、すでに「文學」がそこ に、輕く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の高ノ 映してゐるのである。
さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読 んで、「遠野物語」の新しい讀み方を教へられた。氏はこの著書の據る べき原点を、「遠野物語」と「古事記」に二冊に限つてゐるのである。 近代の民間伝傳承と、古代のいはば壮麗化された民間傳承とを両端に据 ゑ、人間の「自己幻想」と「對幻想」と「共同幻想」の三つの柱を立て て、社會構成論の新體系を樹ててゐるのである。そこには又、 「ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定 してみせるることができる。人間の自己幻想(または對幻想)が極限の かたちで共同幻想に<侵略>された状態を<死>と呼ぶというふうに。 <死>の様式が文化空間のひとつの様式になつてあらわれるのはそのた めである」(一一三ページ) などといふ、きわめて鋭い創見が見られる。 さういへば、「遠野物語」には、無數の死がそつけなく語られてゐ る。民俗學はその發祥からして屍臭の漂ふ學問であつた。死と共同體を ぬきにして、傳承を語ることはできない。このことは、近代現代文學の 本質的孤立に深い衝撃を與へるのである。
しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも學問的素人として、一つの文學として玩味することのほうを選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、眞實の刃物が無造作に抜き身で置かれてゐる。その一つの例は、第十一話であらう。嫁と折合ひの悪い母が息子に殺される話は、現代でも時折三面記事に散
見するから、それ自體、決して遠く忘れ去られた物語ではない。しかしメリメのやうな殘酷な簡潔さで描かれたこの第十一話は、人間の血縁とは何かといふ神話的問題についての、もつともリアリスティックな例證
になるであらう。」
(初出)讀賣新聞・昭和四十五年六月十二日「名著再發見」
posted by Fukutake at 08:07| 日記
2021年05月13日
吉田松陰の最期
「講孟余話ほか」 吉田松陰 松本三之介 田中彰 松永晶三 訳 中公クラシックス 2002年
留魂録 p443〜
(松蔭は、安政六年十月二十七日(一八五九年十一月二十一日)の朝、評定書において罪 状の申渡しがあり、その日の午前、江戸伝馬町の獄舎において死刑に処された。留魂録 は、処刑前日の十月二十六日の夕方書きあげられた。)
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 十月二十五日
私は、昨年以来、心の動きが幾度も変わっていちいち数えきれないほどである。しかし、 そのなかで、なによりも私がそうありたいと強く願い、あおぎ慕ったのは、あの趙の貫高で あり、楚の屈平であった。このことは諸君のよく知っていることである。 だから入江杉蔵が、送別の句のなかで、「燕や趙の国に高傑の士は多いが、貫高のごと き人物はほかにいなかった、荊楚の国にも深く国を憂えた人はいたが、屈平のごとき人物 はほかにいなかった」といっているのも、彼が、私の心を知っていて、そういう句をおくってく れたのである。 しかしながら、五月十一日に、江戸護送の知らせをうけてからは、いまひとつ、「誠」という 字を念頭におき、これを私の行動のよりどころとしようといろいろ考えてみた。ちょうどその ころ、杉蔵が、「死」の字を私におくり、死を覚悟することを説いた。 しかし、私はそれについては考えず、一枚の白の綿布を求めて、これに、『孟子』*の「誠 を尽くしても感動しない者は、いまだ一人もない」の句を書き、手拭いに縫いつけ、それを 持って江戸に来て、これを評定書のなかに留めおいた。これも、誠についての私の志をあ らわすためであった。
(中略)
以上を書きとめた後に、 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ 思ひ残せることなかりけり 呼びだしの声まつ外に今の世に 待つべき事のなかりけるかな 討たれたる吾れをあはれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払えよ
愚かなる吾れをも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ 攘(はら)はんこころ吾忘れめや。
十月二十六日夕暮に書す」
『孟子』* 「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かされざる者は未だこ れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」
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留魂録 p443〜
(松蔭は、安政六年十月二十七日(一八五九年十一月二十一日)の朝、評定書において罪 状の申渡しがあり、その日の午前、江戸伝馬町の獄舎において死刑に処された。留魂録 は、処刑前日の十月二十六日の夕方書きあげられた。)
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 十月二十五日
私は、昨年以来、心の動きが幾度も変わっていちいち数えきれないほどである。しかし、 そのなかで、なによりも私がそうありたいと強く願い、あおぎ慕ったのは、あの趙の貫高で あり、楚の屈平であった。このことは諸君のよく知っていることである。 だから入江杉蔵が、送別の句のなかで、「燕や趙の国に高傑の士は多いが、貫高のごと き人物はほかにいなかった、荊楚の国にも深く国を憂えた人はいたが、屈平のごとき人物 はほかにいなかった」といっているのも、彼が、私の心を知っていて、そういう句をおくってく れたのである。 しかしながら、五月十一日に、江戸護送の知らせをうけてからは、いまひとつ、「誠」という 字を念頭におき、これを私の行動のよりどころとしようといろいろ考えてみた。ちょうどその ころ、杉蔵が、「死」の字を私におくり、死を覚悟することを説いた。 しかし、私はそれについては考えず、一枚の白の綿布を求めて、これに、『孟子』*の「誠 を尽くしても感動しない者は、いまだ一人もない」の句を書き、手拭いに縫いつけ、それを 持って江戸に来て、これを評定書のなかに留めおいた。これも、誠についての私の志をあ らわすためであった。
(中略)
以上を書きとめた後に、 心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ 思ひ残せることなかりけり 呼びだしの声まつ外に今の世に 待つべき事のなかりけるかな 討たれたる吾れをあはれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払えよ
愚かなる吾れをも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ 攘(はら)はんこころ吾忘れめや。
十月二十六日夕暮に書す」
『孟子』* 「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かされざる者は未だこ れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」
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posted by Fukutake at 11:01| 日記