2021年04月20日

小児の神秘

「宮本常一」ちくま日本文学全集 より 筑摩書房 1993年

「愛情は子供と共に」より 子供の世界 p393〜

 「かつて小さい子が川にはまって死んだことがあった。まだ学校へも行かない幼い子で、友達と野へ花をつみに行っての出来事だった。子がいなくなって気狂いのようにさがし求めた親はたそがれのうす明かりに、冷たくなったわが子の姿を川の中に見出した。手にはまだ摘み持った紫雲英(すみれ)があったという。静かにとじた童女の眼は糸のように細く、別に苦悶の色も見えず、何物かを夢見ているようであったという。その母があわれがって、子のために巫女にその霊をおろしてもらうと、子供は水中に美しい花のさいている幻を見て、それをとろうとして水にはまったのだという。そして今は極楽の蓮華さく園にあそんでいるとのことであった。それは巫女の口寄せの常套の文句であったが、少年の頃これをきいてあわれを覚えたことがある。 

 由来幼少の者はしばしばこのようなまぼろしを見ることがあった。この故に神の声をきく役目を小児にあてたことは多かった。神の啓示は心けがれたるものや潔斎の足らない者は受けることが少ないとされていた。

 播磨あたりの祭礼でお頭行事に、頭人として小児の選ばれるのもこのためであろうが、かの「中の中の小ぼんさん…」と言われる童戯のごときはこうした小児に神の啓示を語らしめてこれをきこうとする行事のなごりであろうと言われている。日本の子供あそびには、こうして一人の鬼を定めて物をあてさせようとする行事のきわめて多いのは、神占(しんせん)の名残を示す物であろう。これについては「こども風土記」がわれわれに多くを教える。

 小児は本来一人前の人として認定せられることの少ないもので、年齢通過式を重ねることによって完成して行く。同時にその神秘性を失ってゆくものである。
 小児の神性の由来はその生理的な現象をもとにして考えられた思想であるとともに、なおたましいの一部が前世とにつながっていると考えたからでもあろう。
 しかし神の啓示をするような子は多少異常であり、異常な生まれ方をするか、異常な育ち方をしたものが多かったのである。と同時に子供のそうした特別の行動は人々からも珍重がられたのである。ちょうど早熟の子などが天才と世にちやほやされるのと相似した心理であり、実はその心理が、異常児の言葉を聞こうとした時代の生活の名残りとも言える。」

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posted by Fukutake at 08:15| 日記