「小出楢重随筆集」 芳賀徹 編 岩波文庫
春の彼岸と蛸めがね p105〜
「私は昔から骨と皮で出来上っているために、冬の寒さを人一倍に病む。それで私は冬中彼岸の来るのを待っている。
寒さのはては春の彼岸、暑さのはては秋の彼岸だと母は教えてくれた。そこで暦を見るに、彼岸は春二月の節より十一日目に入七日の間を彼岸という、昼夜とも長短なく、さむからず、あつからざる故時正といえり。彼岸仏参し、施しをなし、善根をすべしとある。
彼岸七日の真中を中日という、春季皇霊祭に当たる。中日というのは何をする日か私ははっきり知らないが、何でも死んだ父の話によると、この日は地獄の定休日らしいのである、そしてこの日の落日は、一年中で最も大きくかつ美しいという事である。
私が子供の時、父は彼岸の中日には必ず天王寺へつれて行ってくれた。ある年、その帰途父はこの落日を指して、それ見なはれ、大きかろうがな、じっと見てるとキリキリ舞おうがなといった。なるほど、素晴らしく大きな太陽は紫色にかすんだ大阪市の上でキリキリと舞いながら、国旗のように赤く落ちて行くのであった。私はその時父を天文学者位えらい人だと考えた。
この教えはよほど私の頭え沁み込んだものと見えて、彼岸になると私は落日を今もなお眺めたがるくせがある。そしてその時の夕日を浴びた父の幻覚をはっきり見る事が出来る。
彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園などは春は一面の菜の花の田圃だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑踏の中には種々雑多の見世物小屋が客を呼んでいた。のぞき屋は当時の人気もの熊太郎弥五十人殺しの活劇を見せていた。その向こうには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首が三味線を弾いている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女の手踊、軽業、こま廻し等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。
その多くの見世物の中で、特に私の興味を捉えたものは蛸めがねという馬鹿気た奴だった。これは私が勝手に呼んだ名であって、原名を何んというのか知らないが、とにかく一人の男が泥絵具と金紙で作った張ぼての蛸を頭から被るのだ。その相棒の男は、大刀を振翳しつつ、これも張ぼての金紙づくりの鎧を着用に及んで張ぼての馬を腰へぶら下げてヤアヤアといいながら蛸を追い廻すのである。蛸はブリキのかんを敲きながら走る。今一人の男はきりこのレンズの眼鏡を見物人へ貸付けてあるくのである。
この眼鏡を借りて、蛸退治を覗く時は即ち光は分解して虹となり、無数の蛸は無数の大将に追廻されるのである。蛸と大将と色彩の大洪水である。未来派と活動写真が合同した訳だから面白くて堪らないのだ。私はこの近代的な興行に共鳴してなかなか動かず父を手古摺らせたものである。
私は、今なお彼岸といえばこの蛸めがねを考える。やはり相変わらず彼岸となれば天王寺の境内へ現れているものかどうか、それともあの蛸も大将も死んでしまって息子の代となっていはしないか。あるいは息子はあんな馬鹿な真似は嫌だといって相続しなかったろうか。あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかと思う。何にしても忘れられない見世物である。」
(『めでたき風景』創元社 昭和五年五月より)
-----