「交差点で石蹴り」 群ようこ 新潮文庫
厄払い p164〜
「新厄年という言葉があるらしいよと友だちが教えてくれた。女性の場合は、十九歳と三十三歳が厄年だが、これは人生五十年のことろの話で、寿命が延びた今は新しい厄年を設定してもいいのではないか、といわれているそうである。
もう厄年が来ないと、ほっとしていたのに、また新しく厄年なんかを作られたらたまらない。私はこの件については反対であるが、厄年は悪いことが起こるというのではなく、女性の体調が変わりやすい時期なので、注意をうながすためにあるのだという話も聞いたことがある。
この説はもっともだけれど、実際のところ、厄年は気にはなるが、よくわからないものなのだ。
私は十九歳のときは、全然、厄年なんか気にしなかったが、三十三歳のときは同い年の知り合いと一緒に、寺で厄払いをしてお札をもらった。
私はそれほど熱心ではなかったのだが、知り合いが、「三十三歳はもう若くないんだから、やっておくに越したことはないわよ」と誘うので、のこのこついていった。フリーになって三年目だったということもあり、「何かあったら、いかん」という思いも頭をかすめたからだ。それを知った母は、「まあ、あんたが厄払いをするなんてねえ」と驚いていたが、「あんたも人並みに、まっとうな部分があったんだね」と喜んだ。しかし、私は、「これで大丈夫だ」と思ったものの、「こんなんで、本当にいいのか」ともらったお札を眺めては、首をかしげていたのであった。
私はお札をもらったら、すべて終わりと思っていたので、お札を引き出しの奥につっこんで、ほったらかしにしていた。
ところがついこの間、母が家に来て、彼女に渡す書類を探していたところ、ひょっこりとこのお札が出てきた。「あーら、まだあった」と行った私に母は、「それは、何なの」と聞いた。「厄払いのお札」といったとたん、彼女は、ひえーっとのけぞり、私は、「そんなものを、いつまでも持ってちゃダメじゃない」と叱られた。何でも、お札をもらって一年たったら、「何事も起こらず無事にすごせました」と、もらったところにきちんとお礼かたがた、返しにいかなきゃいけないのだそうだ。「いいじゃん。別に六年たった今も、特別、何も起こっていないんだからさ」お札をゴミ箱にぽいっと捨てたら、すごい形相で母がゴミ箱からお札を拾い上げ、そして、「まったく、あんたみたいな子は、厄年どころか、年中、ばちが当たるよ!」と怒った。
母はぶつぶついいながら、お札を持って帰った。それ以来、お札をどうしたか知らないが、きっと母の性格では、ちゃんとお礼を返そうと持ち帰ったものの、結局は面倒くさくなって、私と同じように、ゴミ箱に捨てたに違いないとふんでいるのである。」
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ステッキ
「銀座アルプス」 寺田寅彦 角川文庫 2020年
ステッキ p275〜
「… 太平の世の中でも稀には都大路に白昼追剝が出たり、少し貸してくれなどという相手も出現するから、そういう時にはこれがたちまちにして原始民時代の武器として甦生するという可能性も具えているのである。実際自分らの子供時分に自由党の喧嘩の頻繁であったことは鍬の柄をかつぎ廻ったりいわゆる仕込杖というも物騒なステッキを持ち歩くことが流行して、ついには子供用の玩具の仕込杖さえできていたぐらいである。西洋でも映画「三文オペラ」の親方マッキ・メッサーがやはり仕込杖を持っているのである。
とにかく、他に実務的な携帯品があったのでは、せっかくのステッキもただのじじむさい杖になってしまう。汚れた折鞄などを片手にぶらさげてはいけないのである。やはり全く遊ぶよりほかに用のない人がステッキ、そうしてステッキだけを抱えていないと板につかないようである。ゴルフのなんとかいうあの棒などもそうである。歴史は繰返すとすれば今に貴婦人達やモガ達が等身大のリボン附きのステッキにハンドバッグでも吊るしたのを持って銀座を歩くようになると面白い見物であろう。ついでながら、桿状菌(かんじょうきん)バクテリアの語源が、ギリシャ語のステッキであるのはちょっと面白い。病魔のステッキが体内を暴れ廻るのである。
日本で製造して売っている金具附きのステッキはみんな少し使っていると金具がもげたり、はじけたり、へこんだりして駄目である。ここ数年来の経験でこの事実を確かめることができた。もっともステッキに限らず大概の国産商品がそうであり、ちゃんとした器械類でさえも長持ちするのは珍しい。ステッキが用のない人の贅沢品ならば、なるべく早くいけなくてなって、始終新しく取換える方がいいかもしれない。実際新しいステッキを買うとあと一週間ぐらいは勉強ができるという人もいるくらいである。しかし国産の時計や呼鈴などのすぐ悪くなるのは全く始末が悪く日本の名誉のために情けなくなる。
年を取るとやはり杖が役に立つ。毎日あがる階段の杖の役に立つ程度によってその日の身体の工合のよしあしが分かる。健康バロメーターになる。字引で見ると杖の字は昔は尺度の意味であったという話があるから、昔もやはりメーターの一種であったのである。」
(昭和七年十一月『週刊朝日』)
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かの時代より国産品は良くなったようである。
ステッキ p275〜
「… 太平の世の中でも稀には都大路に白昼追剝が出たり、少し貸してくれなどという相手も出現するから、そういう時にはこれがたちまちにして原始民時代の武器として甦生するという可能性も具えているのである。実際自分らの子供時分に自由党の喧嘩の頻繁であったことは鍬の柄をかつぎ廻ったりいわゆる仕込杖というも物騒なステッキを持ち歩くことが流行して、ついには子供用の玩具の仕込杖さえできていたぐらいである。西洋でも映画「三文オペラ」の親方マッキ・メッサーがやはり仕込杖を持っているのである。
とにかく、他に実務的な携帯品があったのでは、せっかくのステッキもただのじじむさい杖になってしまう。汚れた折鞄などを片手にぶらさげてはいけないのである。やはり全く遊ぶよりほかに用のない人がステッキ、そうしてステッキだけを抱えていないと板につかないようである。ゴルフのなんとかいうあの棒などもそうである。歴史は繰返すとすれば今に貴婦人達やモガ達が等身大のリボン附きのステッキにハンドバッグでも吊るしたのを持って銀座を歩くようになると面白い見物であろう。ついでながら、桿状菌(かんじょうきん)バクテリアの語源が、ギリシャ語のステッキであるのはちょっと面白い。病魔のステッキが体内を暴れ廻るのである。
日本で製造して売っている金具附きのステッキはみんな少し使っていると金具がもげたり、はじけたり、へこんだりして駄目である。ここ数年来の経験でこの事実を確かめることができた。もっともステッキに限らず大概の国産商品がそうであり、ちゃんとした器械類でさえも長持ちするのは珍しい。ステッキが用のない人の贅沢品ならば、なるべく早くいけなくてなって、始終新しく取換える方がいいかもしれない。実際新しいステッキを買うとあと一週間ぐらいは勉強ができるという人もいるくらいである。しかし国産の時計や呼鈴などのすぐ悪くなるのは全く始末が悪く日本の名誉のために情けなくなる。
年を取るとやはり杖が役に立つ。毎日あがる階段の杖の役に立つ程度によってその日の身体の工合のよしあしが分かる。健康バロメーターになる。字引で見ると杖の字は昔は尺度の意味であったという話があるから、昔もやはりメーターの一種であったのである。」
(昭和七年十一月『週刊朝日』)
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かの時代より国産品は良くなったようである。
posted by Fukutake at 08:30| 日記