2021年04月15日

名人の若い頃

「幕末維新懐古談」 高村光雲 著 岩波文庫

引き続き作に苦心したこと p136〜

 「されば追っかけて、また一つ外国人から注文がありました。

 今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台(ランプ)であったが、趣は以前と違っておった。これは前述のアーレンス商会からの注文とは何の関係はないのであった。
 注文の大体は、今度は純日本式に童男童女の並んで立っている処をたのむというのであった。まず一尺位の雛形をこしらえてもらって、それを本国に持ち行き、先方にて話の上にて、さらに大作の方をもたのむ計劃であるが、差し当たってはその雛形を念入りに彫ってもらいたい。これは雛形と思わずに、本物同様充分気を附けてやって欲しいというのであった。

 今度もまた私がすべて製作することに師匠からの話がありましたので、私はそれに取り掛かりました。今度は以前のように下繪など面倒なこともありませんので、師匠の差図と自分の考案で、童女の方は十か十一位、桃割に結って三枚襲ね。帯を矢立に結び、鹿の子の帯上げをしているといういわゆる日本むすめの風俗で、極めて艶麗なもの。童男の方は、頭をチョン髷にした坊ちゃんの顔。五ツ紋の羽織の着流しという風俗であった。

 これは色彩なしではあるが、木地のままでも、その物質そのままを感じ、また色彩をも感ずるように非常に苦心をして彫(や)ったのあった。たとえば、帯は緞子の帯ならば、その滑らかな地質がその物の如く現われ、また緋鹿の子の帯上げならば、鹿の子に絞り染めた技巧がよく会得されるように精巧に試みました。また、衣物の縮緬、裾模様の模様などにも苦心し、男の子の着流しの衣紋なども随分工夫を凝らしてやったのでありました。私が精巧緻密な製作をまず充分に試みたと思うたのは、その当時ではこの作が初めであったと覚えます。これもなかなか修行になりました。出来上がると、師匠もなかなかの出来栄えだとほめてくれられ、公使館の人が検分に来た時は大変な気に入りで、よろこんで持って帰りました。これは本国へ送り、さらに大作を注文するということでがあったが、いかなる都合であったか、大きい方はそのままになってしまいました。とにかく、こういう風な西洋人の仕事が段々殖えてきまして、その都度私が関係したのであった。
 師匠はまず大体において、私の仕事を監督しておられたので、実際には手を下すことはなかったのでした。」


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posted by Fukutake at 11:32| 日記

2021年04月14日

懐かしの天王寺

「小出楢重随筆集」 芳賀徹 編  岩波文庫

春の彼岸と蛸めがね p105〜

 「私は昔から骨と皮で出来上っているために、冬の寒さを人一倍に病む。それで私は冬中彼岸の来るのを待っている。
 寒さのはては春の彼岸、暑さのはては秋の彼岸だと母は教えてくれた。そこで暦を見るに、彼岸は春二月の節より十一日目に入七日の間を彼岸という、昼夜とも長短なく、さむからず、あつからざる故時正といえり。彼岸仏参し、施しをなし、善根をすべしとある。

 彼岸七日の真中を中日という、春季皇霊祭に当たる。中日というのは何をする日か私ははっきり知らないが、何でも死んだ父の話によると、この日は地獄の定休日らしいのである、そしてこの日の落日は、一年中で最も大きくかつ美しいという事である。

 私が子供の時、父は彼岸の中日には必ず天王寺へつれて行ってくれた。ある年、その帰途父はこの落日を指して、それ見なはれ、大きかろうがな、じっと見てるとキリキリ舞おうがなといった。なるほど、素晴らしく大きな太陽は紫色にかすんだ大阪市の上でキリキリと舞いながら、国旗のように赤く落ちて行くのであった。私はその時父を天文学者位えらい人だと考えた。

 この教えはよほど私の頭え沁み込んだものと見えて、彼岸になると私は落日を今もなお眺めたがるくせがある。そしてその時の夕日を浴びた父の幻覚をはっきり見る事が出来る。
 彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園などは春は一面の菜の花の田圃だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑踏の中には種々雑多の見世物小屋が客を呼んでいた。のぞき屋は当時の人気もの熊太郎弥五十人殺しの活劇を見せていた。その向こうには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首が三味線を弾いている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女の手踊、軽業、こま廻し等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。
 その多くの見世物の中で、特に私の興味を捉えたものは蛸めがねという馬鹿気た奴だった。これは私が勝手に呼んだ名であって、原名を何んというのか知らないが、とにかく一人の男が泥絵具と金紙で作った張ぼての蛸を頭から被るのだ。その相棒の男は、大刀を振翳しつつ、これも張ぼての金紙づくりの鎧を着用に及んで張ぼての馬を腰へぶら下げてヤアヤアといいながら蛸を追い廻すのである。蛸はブリキのかんを敲きながら走る。今一人の男はきりこのレンズの眼鏡を見物人へ貸付けてあるくのである。

 この眼鏡を借りて、蛸退治を覗く時は即ち光は分解して虹となり、無数の蛸は無数の大将に追廻されるのである。蛸と大将と色彩の大洪水である。未来派と活動写真が合同した訳だから面白くて堪らないのだ。私はこの近代的な興行に共鳴してなかなか動かず父を手古摺らせたものである。

 私は、今なお彼岸といえばこの蛸めがねを考える。やはり相変わらず彼岸となれば天王寺の境内へ現れているものかどうか、それともあの蛸も大将も死んでしまって息子の代となっていはしないか。あるいは息子はあんな馬鹿な真似は嫌だといって相続しなかったろうか。あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかと思う。何にしても忘れられない見世物である。」

(『めでたき風景』創元社 昭和五年五月より)

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posted by Fukutake at 06:57| 日記

2021年04月13日

日本国史

「日本と日本人」 貝塚茂樹 角川文庫 1974年

読める歴史 p182〜

  「三月上旬の晴れた寒い日の昼下がり、桑原武夫君とひと気の余りない京都ホテルの地下のカフェテラスの一隅で二時間ほど歴史についてだべった。明治以後のわが国の歴史の代表的著作としてどの本を選ぶかという、編集業務に関する桑原君の問いに始まったが、例によって脱線して止まるところを知らぬ始末になった。

 明治以後の日本歴史学会は、立派な専門的論文をたくさん生み出した。ところが歴史学的に価値があって、しかも現在一般の知識人が教養として読めるものを推薦しろと頼まれると、なかなか適当な本が頭に浮かんでこない。明治以後という制限を外して日本の史学の名著としたらどうなるであろう。

 私が始めて史学を志して、父の親友でもあった恩師の内藤湖南先生の門をたたいたのはかれこれ四十年前の大正の末期であった。先生は日本の史学で発展的史観をとるものとして『大鏡』『神皇正統記』『読史余論』『大勢三転考』を必読の書としてあげられ。これを読み終えてから『史記』『通典』『通史』『文史通義』等の中国の史書に及んだらよいと、即座にまるで用意された答弁のように淀みなく明快なお答えをいただいた。

 内藤湖南先生があげられた日本史学の四大名著も現代では、残念ながらそのままの形では一般の読み物として通用しない。このうちの前二著は西洋史の時代でいえば中世の著作であるし、後の二著の時代は近世にはいるが、西洋の近代の歴史学の始めであるヴォルテールなどの啓蒙史学の盛んなる以前の作品である。こんな古い時代の作品が、日本のように明治維新以後漢学から西洋学へという徹底的な文化革命をへた現代の日本でそのままの形で読めなくなったとしてもちっともふしぎな話ではない。これは著者の責任ではないことはもちろん、著作自体の価値にほとんど関係はないといってよかろう。

 問題は明治維新以後の日本に読める歴史が乏しいこと、ことに専門家の書いた歴史に読めるものがほとんどないということである。読める歴史というと、日本史の専門家外たとえば古いところでは竹腰の『日本歴史』とか、徳富の『近世日本国民史』、近くは和辻哲郎の『日本古代文化』『鎖国』などがある。歴史家のなかでも西洋史の原勝郎が『日本中世の研究』や東洋史の内藤湖南が『日本文化史研究』のような読める歴史を出していられる。内藤は例外であるが、徳富をふくめてこれらの非専門歴史家はみな外国の歴史を模範として日本史を書いたのであった。

 日本になぜ読める歴史が出ないかという問いにたいする答えは、少し大胆だが、日本歴史の専門家自身が読める歴史の伝統を持たないならだと答えたい。」

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自分で自分の歴史を省みるむずかしさ。
posted by Fukutake at 08:25| 日記