「噴飯 惡魔の辭典」 安野光雅、なだいなだ、日高敏隆、別所実、横田順彌
平凡社 一九八六年
報酬 p231〜
「人間は、働く必要がないにもかかわらずやみくもに働きたがる唯一の動物である。つまり報酬制度というのは、人々のそうした働きに対する評価を実際以上に低く示し、人々に働くことの絶望を教えるためのものなのであるが、それでもなお人々は、更に働きたがるのだ。いっそのことその評価額を、絶望的なほど高くしてみたらどうだろうか。(別所)
あてにしていると、なかなか受けられず、あてにしていないと、やっぱり、受けられないケースの多い、仕事や骨折りなどに対するお礼。(横田)
謝すべき「何等かの行為」によってひきおこされる精神的負担を無くするために、金品を贈ってバランスを保とうとすること。賃金と違って算定基準がないため、互いに完全なバランスを期待することはできない。
怒るべき「何等かの行為」に対する、金品の要求。仇討、祟り、などもバランスを指向する報酬の一種とみなすことができる。(安野)
「あんた、ホーシユーって、どういうものなの。教えてちょうだい。教えてくれたら、チュして上げるわ」
まだ、日本語のよく出来なかった外国人女性が質問した。それに答えるのは作家、某氏である。
「そんなこと簡単さ、そら、今、教えてあげたらチュしてあげるといったろう。そのチュがホーシューなのだ」
「あら、いやだ、わたしなら、そんなものより、お金できちんともらうわ。ホーシューって、つまりおんなの乱発するから約束のことなのね。分かった。」
と相手はいった。こうして、某作家は、報酬という言葉を教えた報酬を得ることができなかったのである。(なだ)
世の中すべてが、いやいやながらも動いてゆく原動力。報酬 (日高)」
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2021年04月15日
漱石の訓戒
「漱石書簡集」 三好行雄編 岩波文庫 1990年
(1906(明治39年)鈴木三重吉あて) p182〜
「ただ一つ君に教訓したき事がある。これは僕から教えてもらって決して損のない事である。
僕は小供のうちから青年になるまで世の中は結構なものと思っていた。旨いものが食えると思っていた。綺麗な着物が着られると思っていた。詩的に生活が出来てうつくしい細君がもてて、うつくしい家庭が出来ると思っていた。
もし出来なければどうかして得たいと思っていた。換言すればこれらの反対を出来るだけ避けようとしていた。然るところ世の中にいるうちはどこをどう避けてもそんなところはない。世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうずまっている。
そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、いやなものでも一切避けぬ、否進んでその内に飛び込まなければ何も出来ぬという事である。
ただきれいにうつくしく暮らす、即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何分一か知らぬがやはり極めて僅少な部分かと思う。で『草枕』のような主人公ではいけない。あれもいいがやはり今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはいけない。
この点からいうと単に美的な文字は昔の学者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味はこの閑文字の中に逍遥して喜んでいる。しかし大なる世の中はかかる小天地に寐ころんでいるようでは到底動かせない。しかも大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。いやしくも文学を以って生命とするものならば単に美というだけは満足が出来ない。ちょうど維新の当士勤王家が困苦をなめたような了見にならなくては駄目だろうと思う。間違ったら精神衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。文学者はノンキに、超然と、ウツクシがって世間と相遠ざかるような小天地ばかりにおればそれぎりだが、大きな世界に出ればただ愉快を得るためだなどとはいうていられぬ。進んで苦痛を求めるためではなくてはなるまいと思う。
君の趣味からいうとオイラン憂い式で、つまり自分のウツクシイと思う事ばかりかいて、それで文学者だと澄ましているようになりはせぬかと思う。現実世界は無論そうはゆかぬ。文学世界もまたそうばかりではゆくまい。かの俳句連、虚子でも四方太でもこの点においてまるで別世界の人間である。あんなのばかりが文学者ではつまらない。というて普通の小説家はあの通りである。僕は一面において俳諧的文学に出入りすると同時に一面において死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如し烈しい精神で文学をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭うて閑に走るいわゆる腰抜文学者のような気がしてならん。『破戒』にとるべき所はないが、ただこの点において他を抜く事数等であると思う。しかし『破戒』は未だし。三重吉先生『破戒』以上の作をドンドン出し玉え。以上。
十月二十六日
鈴木三重吉様 夏目金之助」
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やはり漱石は燃えていた。
(1906(明治39年)鈴木三重吉あて) p182〜
「ただ一つ君に教訓したき事がある。これは僕から教えてもらって決して損のない事である。
僕は小供のうちから青年になるまで世の中は結構なものと思っていた。旨いものが食えると思っていた。綺麗な着物が着られると思っていた。詩的に生活が出来てうつくしい細君がもてて、うつくしい家庭が出来ると思っていた。
もし出来なければどうかして得たいと思っていた。換言すればこれらの反対を出来るだけ避けようとしていた。然るところ世の中にいるうちはどこをどう避けてもそんなところはない。世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうずまっている。
そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、いやなものでも一切避けぬ、否進んでその内に飛び込まなければ何も出来ぬという事である。
ただきれいにうつくしく暮らす、即ち詩人的にくらすという事は生活の意義の何分一か知らぬがやはり極めて僅少な部分かと思う。で『草枕』のような主人公ではいけない。あれもいいがやはり今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはいけない。
この点からいうと単に美的な文字は昔の学者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味はこの閑文字の中に逍遥して喜んでいる。しかし大なる世の中はかかる小天地に寐ころんでいるようでは到底動かせない。しかも大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。いやしくも文学を以って生命とするものならば単に美というだけは満足が出来ない。ちょうど維新の当士勤王家が困苦をなめたような了見にならなくては駄目だろうと思う。間違ったら精神衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。文学者はノンキに、超然と、ウツクシがって世間と相遠ざかるような小天地ばかりにおればそれぎりだが、大きな世界に出ればただ愉快を得るためだなどとはいうていられぬ。進んで苦痛を求めるためではなくてはなるまいと思う。
君の趣味からいうとオイラン憂い式で、つまり自分のウツクシイと思う事ばかりかいて、それで文学者だと澄ましているようになりはせぬかと思う。現実世界は無論そうはゆかぬ。文学世界もまたそうばかりではゆくまい。かの俳句連、虚子でも四方太でもこの点においてまるで別世界の人間である。あんなのばかりが文学者ではつまらない。というて普通の小説家はあの通りである。僕は一面において俳諧的文学に出入りすると同時に一面において死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如し烈しい精神で文学をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭うて閑に走るいわゆる腰抜文学者のような気がしてならん。『破戒』にとるべき所はないが、ただこの点において他を抜く事数等であると思う。しかし『破戒』は未だし。三重吉先生『破戒』以上の作をドンドン出し玉え。以上。
十月二十六日
鈴木三重吉様 夏目金之助」
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やはり漱石は燃えていた。
posted by Fukutake at 15:52| 日記
名人の若い頃
「幕末維新懐古談」 高村光雲 著 岩波文庫
引き続き作に苦心したこと p136〜
「されば追っかけて、また一つ外国人から注文がありました。
今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台(ランプ)であったが、趣は以前と違っておった。これは前述のアーレンス商会からの注文とは何の関係はないのであった。
注文の大体は、今度は純日本式に童男童女の並んで立っている処をたのむというのであった。まず一尺位の雛形をこしらえてもらって、それを本国に持ち行き、先方にて話の上にて、さらに大作の方をもたのむ計劃であるが、差し当たってはその雛形を念入りに彫ってもらいたい。これは雛形と思わずに、本物同様充分気を附けてやって欲しいというのであった。
今度もまた私がすべて製作することに師匠からの話がありましたので、私はそれに取り掛かりました。今度は以前のように下繪など面倒なこともありませんので、師匠の差図と自分の考案で、童女の方は十か十一位、桃割に結って三枚襲ね。帯を矢立に結び、鹿の子の帯上げをしているといういわゆる日本むすめの風俗で、極めて艶麗なもの。童男の方は、頭をチョン髷にした坊ちゃんの顔。五ツ紋の羽織の着流しという風俗であった。
これは色彩なしではあるが、木地のままでも、その物質そのままを感じ、また色彩をも感ずるように非常に苦心をして彫(や)ったのあった。たとえば、帯は緞子の帯ならば、その滑らかな地質がその物の如く現われ、また緋鹿の子の帯上げならば、鹿の子に絞り染めた技巧がよく会得されるように精巧に試みました。また、衣物の縮緬、裾模様の模様などにも苦心し、男の子の着流しの衣紋なども随分工夫を凝らしてやったのでありました。私が精巧緻密な製作をまず充分に試みたと思うたのは、その当時ではこの作が初めであったと覚えます。これもなかなか修行になりました。出来上がると、師匠もなかなかの出来栄えだとほめてくれられ、公使館の人が検分に来た時は大変な気に入りで、よろこんで持って帰りました。これは本国へ送り、さらに大作を注文するということでがあったが、いかなる都合であったか、大きい方はそのままになってしまいました。とにかく、こういう風な西洋人の仕事が段々殖えてきまして、その都度私が関係したのであった。
師匠はまず大体において、私の仕事を監督しておられたので、実際には手を下すことはなかったのでした。」
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引き続き作に苦心したこと p136〜
「されば追っかけて、また一つ外国人から注文がありました。
今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台(ランプ)であったが、趣は以前と違っておった。これは前述のアーレンス商会からの注文とは何の関係はないのであった。
注文の大体は、今度は純日本式に童男童女の並んで立っている処をたのむというのであった。まず一尺位の雛形をこしらえてもらって、それを本国に持ち行き、先方にて話の上にて、さらに大作の方をもたのむ計劃であるが、差し当たってはその雛形を念入りに彫ってもらいたい。これは雛形と思わずに、本物同様充分気を附けてやって欲しいというのであった。
今度もまた私がすべて製作することに師匠からの話がありましたので、私はそれに取り掛かりました。今度は以前のように下繪など面倒なこともありませんので、師匠の差図と自分の考案で、童女の方は十か十一位、桃割に結って三枚襲ね。帯を矢立に結び、鹿の子の帯上げをしているといういわゆる日本むすめの風俗で、極めて艶麗なもの。童男の方は、頭をチョン髷にした坊ちゃんの顔。五ツ紋の羽織の着流しという風俗であった。
これは色彩なしではあるが、木地のままでも、その物質そのままを感じ、また色彩をも感ずるように非常に苦心をして彫(や)ったのあった。たとえば、帯は緞子の帯ならば、その滑らかな地質がその物の如く現われ、また緋鹿の子の帯上げならば、鹿の子に絞り染めた技巧がよく会得されるように精巧に試みました。また、衣物の縮緬、裾模様の模様などにも苦心し、男の子の着流しの衣紋なども随分工夫を凝らしてやったのでありました。私が精巧緻密な製作をまず充分に試みたと思うたのは、その当時ではこの作が初めであったと覚えます。これもなかなか修行になりました。出来上がると、師匠もなかなかの出来栄えだとほめてくれられ、公使館の人が検分に来た時は大変な気に入りで、よろこんで持って帰りました。これは本国へ送り、さらに大作を注文するということでがあったが、いかなる都合であったか、大きい方はそのままになってしまいました。とにかく、こういう風な西洋人の仕事が段々殖えてきまして、その都度私が関係したのであった。
師匠はまず大体において、私の仕事を監督しておられたので、実際には手を下すことはなかったのでした。」
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posted by Fukutake at 15:48| 日記