2021年04月21日

唐と宋

宮崎市定全集 17 −中国文明−」 岩波書店 1993年

隋唐文化の本質 p292〜

 「普通に隋唐の文化は豪壮雄大な気分が横溢したもののように考えられているようだが、私の見る所はそうではない。いったい中国はいつの時代でも日本のようにこせこせした所はないので、日本の物差しで計ると間違いのもとになる。中国の長い歴史の上から見ると、隋唐の貴族文化は、漢代に比べてずっと繊細になり、同時にどこの国の貴族にも共通な弱点を示している。その一つは無駄が多いことである。いらぬ所にまで、べったり模様をならべて小細工が多すぎる。容器の柄のいらぬ所へ鳥をとまらせたりして悦にいっている。出来るだけ無駄をすることが貴族の間の自慢なのであった。材料を必要以上にふんだんに使うのも貴族の好尚である。あの部厚い銅鏡は重すぎてさぞかし不便だったろうと思う。

 貴族文化は一面において工匠、職人の文化である。都市には職人のギルドがあり、貴族の隷民の中にも職人があって、専門の技能を磨いていた。彼らは貴族の好尚に応ずるように努力して生産に従事した。隋唐文化には、強い西アジアの影響がみられるが、その西アジアも当時は貴族時代であった。彼らの技術は細部に対しては、必要以上に気を配るが、さて全体の美的効果はという点になると、案外おかまいなしである。実用的な合理性ということをほとんど考えない器物もある。これは仕事を職人に任せすぎた結果であろう。

 貴族文化のいい所は、材料を精選し、まやかし物を嫌う点にある。織物の染色などに千有余年を経た今日、目のさめるような鮮やかなものもある。壁画は大して貴族的要素をもたないが、それでもやはりいい絵具を使っている。土偶の馬はいずれも体格がよくて名馬の相を具えているが、これも当時の貴族社会に趣味として乗馬が流行していたことの反映であろう。

 工人の仕事は当然マンネリズムに陥る。人に頼まれて壁画を描く画工は
千篇一律に同じような仏像を同じような施主の男女像を描き続けていた。それが唐のころから、画工の絵ではない、画家の絵が盛んになり出した。王維の筆と伝えられる伏生授経図などがそれである。アルチザンの絵ではなくて、アーチストの絵である。これが宋以後、いわゆる士大夫画となって画壇の本流を占めるようになった。職人だけに任せず、知識階級が文化の指導に乗り出したのが宋の文化である。」

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隋唐文化の長所と弱点を見抜く。
posted by Fukutake at 10:35| 日記

2021年04月20日

小児の神秘

「宮本常一」ちくま日本文学全集 より 筑摩書房 1993年

「愛情は子供と共に」より 子供の世界 p393〜

 「かつて小さい子が川にはまって死んだことがあった。まだ学校へも行かない幼い子で、友達と野へ花をつみに行っての出来事だった。子がいなくなって気狂いのようにさがし求めた親はたそがれのうす明かりに、冷たくなったわが子の姿を川の中に見出した。手にはまだ摘み持った紫雲英(すみれ)があったという。静かにとじた童女の眼は糸のように細く、別に苦悶の色も見えず、何物かを夢見ているようであったという。その母があわれがって、子のために巫女にその霊をおろしてもらうと、子供は水中に美しい花のさいている幻を見て、それをとろうとして水にはまったのだという。そして今は極楽の蓮華さく園にあそんでいるとのことであった。それは巫女の口寄せの常套の文句であったが、少年の頃これをきいてあわれを覚えたことがある。 

 由来幼少の者はしばしばこのようなまぼろしを見ることがあった。この故に神の声をきく役目を小児にあてたことは多かった。神の啓示は心けがれたるものや潔斎の足らない者は受けることが少ないとされていた。

 播磨あたりの祭礼でお頭行事に、頭人として小児の選ばれるのもこのためであろうが、かの「中の中の小ぼんさん…」と言われる童戯のごときはこうした小児に神の啓示を語らしめてこれをきこうとする行事のなごりであろうと言われている。日本の子供あそびには、こうして一人の鬼を定めて物をあてさせようとする行事のきわめて多いのは、神占(しんせん)の名残を示す物であろう。これについては「こども風土記」がわれわれに多くを教える。

 小児は本来一人前の人として認定せられることの少ないもので、年齢通過式を重ねることによって完成して行く。同時にその神秘性を失ってゆくものである。
 小児の神性の由来はその生理的な現象をもとにして考えられた思想であるとともに、なおたましいの一部が前世とにつながっていると考えたからでもあろう。
 しかし神の啓示をするような子は多少異常であり、異常な生まれ方をするか、異常な育ち方をしたものが多かったのである。と同時に子供のそうした特別の行動は人々からも珍重がられたのである。ちょうど早熟の子などが天才と世にちやほやされるのと相似した心理であり、実はその心理が、異常児の言葉を聞こうとした時代の生活の名残りとも言える。」

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posted by Fukutake at 08:15| 日記

2021年04月19日

生まれ変わり

「柳田國男全集 13」 ちくま文庫

七八 家と小児 p200〜

 「日本の生れ替わりの第二の特色と言ってよいのは、魂を若くするという思想であったことである。小児の生身玉はマブリともまたウブともウッッとも呼んでいたらしいが、これは年とった者に比べると、身を離れて行く危険の多かった代りに、また容易に次の生活に移ることもできて、出入ともにはなはだ敏活なように考えられていた。沖縄諸島では童墓(わらべばか)と称して、六歳以下で死んだ児のために、別に区劃した埋葬地ができていた。近畿、中国においても子三昧、または子墓という名があって、やはり成人とはやる処を異にしていた例が多い。葬りの式もいろいろの点でちがっていた。必ずしもまだ小さいから簡略にするというのではなく、佐渡ではかわった形の花籠を飾り、阿波の祖谷山では舟形の石を立てる。対馬の北部などでも仏像を碑の上半に彫刻して、それを彩色したものが小児の墓であった。関東、東北の田舎には、水子にはわざと墓を設けず、家の牀下に埋めるものがもとは多かった。若葉の魂ということを巫女などはいったそうだが、それはただ穢れがないというだけではなしに、若葉の魂は貴重だから、早くふたたびこの世の光に逢わせるように、なるべく近い処に休めておいて、出て来やすいようにしようという趣意が加わっていた。青森県の東部一帯では、小さな児の埋葬には魚を持たせた。家によっては紫色の着物を着せ、口にごまめを咬えさせたとさえ伝えられる。ちょうど前掲の立願ほどきとは反対に、生臭物によって仏道の支配を防ごうとしたものらしく、七歳までは子供は神だという諺が、今もほぼ全国に行われているのと、何か関係があることのように思われる、津軽の方では小児の墓の上を、若い女に頼んで踏んでもらう風習もある。魚を持たせてやる南部の方の慣行とともに、いずれも生まれ替わりを早くするためだということを、まだ土地の人たちは意識しているのである。

 この再生が遠い昔から、くり返されていたものとすれば、若い魂というものはあり得ない道理であるが、これは一旦の宿り処によって、魂自らの生活力が若やぎ健やかになるものと、考えていた結果と推測せられる。七十八十の長い生涯を、働き通して疲れ切った魂よりも、若い盛りの肉体に宿ったものの方が、この世においても大きな艱苦に堪え、また強烈な意思を貫き透すことができる。それがまだ十分にその力を発揮せぬうちに、にわかに身を去れば残りの物はいずこへ行くとするか。こういうこともきっと考えられたものと思う。時代が若返るということは、若い人々の多く出て働くことであった。若さを美徳としまた美称とした理由は、日本の古い歴史ではかなりはっきりとしている。おそらくが長寿の老いてくたびれた魂も、できるだけ長く休んでふたたびまた、溌剌たる肉体に宿ろうと念じたことであろう。その期限というものがとぶらい上げ、すなわち三十三年の梢附塔婆(うれつきとうば)が立てられる時と、昔の人たちは想像していたのではなかったかと思う。」

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生まれ替わりの民間伝承
posted by Fukutake at 08:32| 日記