2021年04月26日

「故郷五十年」より

「柳田國男全集 第二十一巻」   筑摩書房 1997年

(茨城県)布川* p44〜

 「布川にいた二ケ年間の話は、馬鹿馬鹿しいということさえかまわなければいくらでもある。何かちょっと書いたが、こんな出来事もあった。小川家のいちばん奥の方に少し綺麗な土蔵が建てられており、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠(ほこら)の新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して来た偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。

 この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあちゃんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当たる人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。

 その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持ちになって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、わたしはしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分の知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持ちを取り戻した。

 今考えてみても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯(ヒヨドリ)がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。」
布川* :茨城県北相馬郡利根町布川

-----
時空を超えた魂の共振作用か。

他のブログを見る : http://busi-tem.sblo.jp

posted by Fukutake at 08:34| 日記

2021年04月23日

林彪の粛清

宮崎市定全集 17 −中国文明−」 岩波書店 1993年

林彪批判の歴史的背景 p390〜

 「林彪批判が行われるべき必然性は容易に理解できる。彼の失脚は一般人の間には、どんな理由によるものか、如何なる経過を辿ってか、全く知られる所なく、唐突に不慮の死を遂げて、しかも死後ほど経た後に漸く、それが反革命陰謀の結果であったことが知らされたのである。しかも林彪は内戦における最高殊勲者、文化大革命の最大功労者を経て、明らかに毛沢東の後継者に指名されたという赫赫たる経歴を持つ、党内第二位の大物であっただけに、彼の死がその悪行による当然の報いであったことを世人に周知せしめるには、それだけ大がかりな舞台装置を整えた上で説明会を開かなければならぬわけである。

 ただ一つ、どんなに説明されても判らない部分が残っている、というのは、それだけ重大な罪状があった林彪が、いよいよ最期を遂げてしまうまで、なぜ少しも外部へ知らされなかったという疑問である。…

 文化大革命における幹部批判の場合も同様である。毛沢東以下全員を批判の対象とすることが許されれば、言うことはいくらも出てくるであろう。言わせておけば批判は止めどもなく行われて無秩序に陥る危険がある。私が文革の始まった当初からの推測では、少しくも毛沢東、林彪、周恩来の三人は批判の対象から除外され、若し壁新聞などで攻撃が行われても、直ちに新聞のほうが撤去される定めになっていたに違いない。事実そういうことが確かに行われていたようである。
 このような免責特権が、実は林彪を破滅に導いた原因になったとも言える。林彪一派はこの機会を利用して、林彪を担いでその地位を不動のものとすると共に、自派の地位強化を計ったのである。これは取りも直さず、嘗ての劉少奇の歩んだ道であったのだ。今や林彪一派はその多くが軍人であったせいもあり、将来を洞察する明に欠け、前車の轍をそのまま追いかけるの愚を敢えてしたのである。

 評論家がなんと言おうと、中国共産党は独裁主義の体制である。そしてこの点においては、好むと好まざるとに拘らず、伝統的な中国の皇帝制度と一脈通ずるものがある。中国に皇帝制度が成立してから、それが次第に独裁に傾き、完全に近い独裁皇帝が出現したのは大体、宋代以後とされる。この独裁皇帝は全く只一人の皇帝が全権を独占していなければ満足せず、皇帝に次ぐ第二人者の存在を嫉視した。たとえそれが皇太子であろうとも、これが第二人者として皇帝の尊厳の分け前に与ることを欲しなかった。それが清朝に至って、近世的独裁皇帝の見本とされる雍正帝によって、皇太子という制度そのものが廃止されてしまった。これは第二人者を認めないという独裁皇帝制度の当然の帰結というべきであった。」

-----
反革命などという汚名を着せられた皇帝毛沢東による第二位者の排除。


posted by Fukutake at 13:38| 日記

2021年04月22日

江戸の相撲取り

「相撲の話」鳶魚江戸文庫4より 三田村鳶魚 著 
 朝倉治彦 編 中公文庫 1996年

「相撲取りの生活」山本博文 p239〜

 「江戸時代の一流の相撲取りは、諸藩のお抱えの相撲取りであった。
 力自慢の若者たちは、江戸や大坂へ出て相撲年寄に弟子入りし、それぞれの部屋に所属する。そこで修行を積み、興行相撲でよい成績を取っていれば、諸藩に「お出入り」となる。諸藩の屋敷へ出入りし、化粧まわしを賜り、番付で藩名を頭書することが許されるのである。そして、幕内になる頃には、諸藩のお抱えとなり、給金を支給される。
 実際、幕内の力士はほとんどいずれかの藩のお抱えであり、勧進大相撲興行の時は、勧進元が各藩に、お抱え力士の拝借を願って出場させていた。

 有望な力士となると、抱えを希望する藩の間で争奪戦が起こるなど、諸藩とも強い力士を欲しがっていた。大名にとって有力力士を持つことはその藩の名声につながり、参勤交代で国元などに連れて帰れば、領民に対して藩主の権威を高めることもできた。

 多くの力士にとって、大相撲が仕事のすべてではない。江戸・大坂・京都の相撲集団を構成する年寄(師匠)に率いられた相撲小集団(現在の部屋にあたる)は、大相撲興行以外の時期には寺社の相撲奉納に招かれたり、地方巡業を行うなどの活動をしていた。これが一般の力士たちの収入の元であった。祭礼の相撲に三人の力士を派遣した場合、礼金は四両三分だったという。…

 これらのお抱え力士たちは、引退すると多くは抱えを説かれて相撲年寄専業となり、弟子の養成などにあたる。まれには藩の抱え力士を統括する相撲年寄になることもある。どちらにせよ、一流力士は、引退後の生活の心配はあまりなかった。

 しかし。むかし甲子園を沸かせた高校生投手とか、一流半クラスの元プロ野球選手、はたまた元プロボクサーが、現役引退後しばらくして、新聞の片隅に犯罪者として登場することは、しばしば目にするところである。日本の国技である相撲の世界においても、例外ではない。年寄株を担保に莫大な借金をし、相撲界を追放されてプロレスラーになっている元横綱もいる。

 その地位につては現在の相撲と比べるべくもないが、江戸時代の相撲取り、つまり職業スポーツ選手も、現役時代はそれなりに華やかであるが、一流半どころの相撲取りは、現役引退後、生活に苦労していることが多い。…」


----
何商売も甘くはないのう。

posted by Fukutake at 08:25| 日記