2021年04月30日

龍の爪

宮崎市定全集 17 −中国文明−」 岩波書店 1993年

竜の爪は何本か p300〜

 「中国で天子の用いる龍の形状が五本爪ということに決まると、民間で龍の形を描く時には、いきおい四本爪以下のものになる。おそらくそれぞれの地位に応じて爪の数を加減し、下へ行くほど数を少なくして、三本爪や二本爪の龍を描いていたのであろう。中国に近く、従って中国思想に染まることの深かった朝鮮では、何事によらず中国より一段低い所で遠慮していねばならなかったので、国王の用いる龍の形も四本ときまり、民間では三本爪以下しか許されなかったようである。

 そこで中国や朝鮮から影響を受けて龍の形を学んだ日本においては、一般に爪の数がすこぶる少なく描かれている。日本には別に面倒な禁令などなかったようであるから、何本の爪を描いてもよさそうなものだが、中国朝鮮の民間に行われる龍の形を見て、これが本当の龍の形だと思いこんでしまったのであろう。私の知っている限りにおいては、豊臣秀吉が明の万暦帝から貰った、日本国王に封ずるぞという詔勅の巻物の表装の龍が五本爪であるが、これは明の天子の内府で製造されたに違いないから五本爪なのは当然である。その外には五本爪の龍はどうも見当らない。清朝時代の用語であれば、みな蟒(うわばみ)に過ぎぬのである。

 もちろん、爪の数は絵の出来不出来とは全く別物である。大将の肖像がいつも兵卒の肖像よりすぐれているといえぬと同様、五本爪にかいたからといって傑作になるとは限らない。要するに龍の絵は龍らしく出来ていればそれでいいのである。また龍の爪は何本かと聞かれた答えに、何本でもいい、といっても実際にそれで済ませるわけであるが、それは一般の場合である。それではすまされぬことの出てくるのが、我々、中国の歴史を研究しているものの立場である。これは何も龍だけに限ったことではない。中国の歴史を研究するには、あらゆる方面にこのような下らぬことにも気をくばらなくてはならない。自然科学の場合のように、単刀直入、まっしぐらに本質的な問題に向かって取り組むというわけにはいかない。いろいろ煩わしい二義的な問題を片付けたあと、豊富な常識を身につけてから本当の問題に取りかからなければならない。この手続きを怠ると、つまらない所でボロを出すおそれがある。だから人間も四十歳ぐらいにならぬと、一人前の研究者になれぬなどともいわれる。いやそれどころではない、還暦をすぎた我々でも、時々馬脚を現して恥じ入ることがよくある。

 ところでそのこと自身は一見してつまらぬことのようでありながら、それを中国文化全体の中で眺めた時に、案外つまらなくはないことがその中に存在することもある。いまの龍の爪の問題でも、想像上の動物である龍の爪が何本あろうと、歴史の大勢には関係ないことだが、しかしそういう龍の思想の変遷の中に、大きな中国社会の動きと特色とが看取されるのである。だからこそ、中国研究は面白くてやめられないわけである。」

(『洛味』第一三九集、一九六四年二月)

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2021年04月28日

文士の信念

「小林秀雄全集 第十一巻」− 近代繪畫 − 新潮社版 平成十三年

「栗の樹」 p36〜

 「文學で生計を立てるやうになつてから、二十數年になるが、文學について得心した事と言つたら何であらうか。それが、いかなる辛い不快な仕事であり、青年期には、その辛い不快な事をやつてゐるのが、自慢の種にもなつてゐたから、よかつた様なものの、自慢の種などといふろくでもない意識が消滅すれば、後はもう勞働だ。得心盡くの勞働には違ひないが、時々、自分の血を賣るやうななりはひが、つくづくいやになる事がある。

 私の親しい友達の中には、新聞の連載を二つも書き、その上、週刊誌や月刊誌、その臨時増刊誌と執筆の手をひろげてゐる重勞働者が幾人もゐる。何も好きこのんで多忙になつてゐるわけではないのだがら、さぞ辛い事だらうと思つてゐる。現代に生まれて文學をやるとは、辛い不快な事であり、その原因は、私達が傳承した西洋近代文學の毒の中に深く隱れてゐる。そんなのろはれた意識は、彼等には興味がないだらう。併し、自分で勝手に作り上げる辛さが、世間に強ひられる辛さより、ほんの少しでも増しなのか。今日では、私は、少しの皮肉も交へず言ふ事が出来る。彼等は、世間の御機嫌を取つてゐる。私は自分の御機嫌を取つてゐる。何の違ひもありはしない。この考へは、私としては、割合に新しい考へで、今後、追求してみる興味を持つ。

 私の家内は、文學について、文學的な興味など示した事がない。用事のない時の暇つぶしに、たまたま手許にある小説類を、選擇なく讀んでゐるが、先日、藤村の「家」を讀み、非常な感動を受けた。だが、これも、彼女は信州生まれで、信州の思ひ出が油然と胸にわいたがためである。彼女は、毎日、人通りまれな一里餘りの道を歩いて、小學校に通つてゐた。その途中に、栗の大木があつて、そこまで来ると、あと半分といつも思つた。それがやたら見たくなつたのだが、まさかそんな話も切り出せず、長い事ためらつてゐたが、我慢が出来ず、その理由を語つた。私が即座に贊成すると、親類へ手土産などしこたま買ひ込み大喜びで出掛けた。數日後還つて来て「やつはり、ちやんと生えてゐた」と上機嫌であつた。さて、私の栗の樹は何處にあるのか。

(「朝日新聞」、昭和二十九年十一月)

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2021年04月27日

震災の真実

「遠野物語」 柳田国男 角川文庫

津波の記憶 九十九 p55〜

 「土淵村*の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが。先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男とは見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありしに間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。」
土淵村* 現在の岩手県遠野市土淵町


「魂でもいいから、そばにいてー3・11後の霊体験を聞くー」 奥野修司 新潮文庫 令和二年

 遠藤由理さんの体験 p79〜

 「…津波で逝った(長男)の康生くんがそばにいると感じたのは、震災から二年経った頃だという。あの子は言葉は思い出すのに声が出てこない。幼稚園で撮ったビデオを見ればいいのに、怖いのと見れば悲しくなるのがわかっているから見ることもできない。康ちゃんどうしているんだろう、逢いたいなあ…、由理さんのそんな思いが頂点に達したときだった。
 「二〇一三年のいつでしたか、暖かくなり始めた頃でしたね。あの日、私と中学生の娘と主人と、震災の翌年に生まれた次男の四人で食事をしていたんです。康ちゃんと離れて食べるのもなんだから、私が祭壇のほうを振り向いて、『康ちゃん、こっちで食べようね』そう声をかけて『いただきます』と行った途端、康ちゃんが大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が、いきなり点滅したかと思うと、ブーンって音をたてて動いたんです」

 窓際にプラスチック製のその車が置かれていた。由理さんがスイッチを入れると「がガガガ、出発進行!」という機械の音声が聞こえる。もちろん勝手に動くことはありえない。
 「『このおもちゃ、勝手に動くの?』どうやったってスイッチをオンにしないかぎり動かないのに動いたのです。そのときみんな『アッ、康ちゃんだ』と叫びました。『康ちゃん、こんなとこさ、遊んでんだ』

 そう思ったらうれしく仕方がありません。それから何日か経ったある日、主人が次男をお風呂にいれていたときでした。『康ちゃん、もう一回でいいからママにおもちゃ動かして見せて』心の中でお願いしたんです。そしたらまた動いたんですよ『康ちゃん、ありがとう』こんな近い距離で私たちを見ているんだ。そう思ったとき、昔から私に『笑って、笑って』とひょうきんな顔をしたのを思い出しましてね、そうだ、私も笑わなきゃだめだ、頑張らなきゃだめだと思ったのです。
 奥のキッチンから、長女が料理をしているのか、カタカタと音がする。由理さんは、すっかり冷たくなったお茶をすすった。」
(『ママ、笑って』より)

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一八九六(明治二十九)年六月十五日。三陸地方にマグニチュード8以上の大地震、津波が起こった。死者二万二千人

二〇一一(平成二十三)年三月十一日。東日本の沿岸部にマグニチュード9の地震・津波により甚大な被害が生じた。死者二万二千人
posted by Fukutake at 08:50| 日記