「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
法律は至上のものではない p248〜
「ソルジェニーツィンは、有名なハーバード大学講演で、
「わたしはこれまでの全生涯を共産主義者の支配体制の下で過ごして来たのだが、その経験をも踏まえた上で、なおかつ諸君に言いたいと思うことがある。それは客観的な法律的基準というものが何ひとつないソ連のような社会は、まことに恐るべき社会であるが、しかしまたこのアメリカのような万事が法律ずくめで、法律以外の何の基準もない社会もまた、人間の住むに値する社会とは考えにくいということである」
と言って、アメリカ社会の法律万能主義、法律至上主義を厳しく糾弾したのである。
法律至上主義というのは、人間としての生活や行動の基準となるものを法律以外には知ることなく、法律に合っていることだけで正義のすべてはつくされていると考えることななのである。だから悪徳商法で世間の非難を浴びた会社の幹部も、「自分たちは何も法律に違反するようなことはしていない」と威張って言うことができたのである。そしてまたまさにそれ故に、もっと別の場合には、公に無罪を宣言されて出て来た犯罪者を、被害者の縁者が直接に殺すというようなことも起るのである。無罪は必ずしも無実を意味するものではないことを、ある刑法学者かわたしは聞いたことがある。つまりそれは法廷の駆け引きを得意とする代言人の勝利というだけのことかも知れない。ところがわが国のマスコミでは、しばしば無罪判決を一大正義の実現でもあるかのようにはなばなしく報道したりしている。例えば例の松川事件にしても、正義の実現ということは列車転覆によって殺された人たちのために考えるのが第一であって、たまたま容疑者が無罪判決となったというようなことで片づくものではないように思われるけれども、わが国のマスコミは何かそのような印象を与えるかのごとき取扱いをしていたのではないか。
しかしこのようなことは、われわれの正義感を麻痺させ、われわれの精神全体の頽廃をもたらすのではないかということを、われわれもソルジェニーツィンと共に深く憂えなければならないだろう。特にわが国では法律論や法廷弁論の類が法廷以外の場所でも幅をきかせ、何とも滑稽とも見られるが、またむしろ恐るべきと形容しなければならないような意味のものとなっている。プラトンは法律至上主義の考え方を、「何ぴとも法律よく賢くあってはならない」という命題として要約しているが、これは人間の生活基準として法律以外のものを知らない社会の非人間性の恐ろしさとして、ソルジェニーツィン講演においてもわれわれが教えられたものと同じと言うことができるだろう。…
一時やかましく言われた政治倫理の問題にしても、国会議員が裁判で有罪判決を受けた場合どうするかというようなところに焦点がおかれて、何だか大騒ぎしていたようであるが、裁判所の判決を待ってやっと倫理が動き出すというのは、何ともおかしなことである。要するに倫理などということを真面目に考えたことのない人たちが、政争の具に倫理という名目を利用しただけのことなのである。そしてそのようなやり方が、われわれの政治や倫理もしくは道徳についての考え方にどんなマイナス影響を及ぼしているかを考えていようともしていないのである。」
(文藝春秋 昭和六十年十月 巻頭随筆 補遺)
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慧眼かくの如し