2021年03月05日

わだつみのこえ

「小林秀雄全集 第九巻」− 私の人生觀− 新潮社版 平成十三年

「きけわだつみのこえ」 p198~

「「きけわだつみのこえー 日本戰歿學生の手記」は、非情に讀まれているさう
であるが、私も一讀して、成る程と思つた。これには、流行のルポルタージュ文學
に容易に認め難い直接に人の心を捕へる力があるのである。人間の表現力といふも
のは不思議なもので、この力の構造について、明瞭な意識を持つなどといふこと
は、まづ望めないことのやうな氣がする。

手記を書いた或る學生は、無量の想ひを有限な紙に記するもどかしさを言つてゐ
るが、これは、手記を遺した全ての人達の想ひ立つたらうと察しられる。まづ語ら
んとする無量の想ひといふものがあるのだ。今日の職業文學者達が忘れ果ててしま
つた大切なものが。

私は、ここに現れた學生達の手記の内容を云々しまい。觀察や批判や、感情の未
熟を言ふまい。かれらを追ひやつた現實條件について、彼等が正しい眼を持つてゐ
なかつたなどと言ふまい。さういふことを言ふのは正しいやうで、實は少しも正し
くナイト思つてゐる。これは追ひつめられた者の叫喚でも、うめき聲でもない。覺
め切つた緊張し切つた正しい人間の表現である。誰も彼も、自己といふ現存を、め
いめいの才能と意志との限りを盡して語つてゐるのだ。それはそれとして正しく及
び難いのである。

「平家物語」を讀んでゐて、叙述が戰の物語から忽ち戀愛談に移るのを、人は何ん
とも思はない。それは同じ人間劇だからである。戰爭や戀愛のあるお陰で、何んと
人間達は生き生きとして来るか。戀愛が女の感情を磨くやうに、戰爭は男の意志を
鍛へる。強く勇氣のあるものが勝つて還理、卑怯な弱者はくたばる。さういふ物語
を、私達は讀むのである。必ずしも單なる物語ではなかつたであらう。
人間らしい物語を創り出すことのできるやうな戰爭も實際に可能だつた時代
もあつたのである。しかし、今となつてはもう駄目だ。學生の手記中には、娑婆と
いふ言葉がしばしば使われてゐるが、出征すればもう彼等は娑婆にはゐないと皆感
じてゐる。現代の戰爭とは、もはや娑婆の出来事ではないのである。恐るべき兵器
を前にして、人間はもはやその勇氣を試すことも、その意志を鍛えることも不可能
だ。爆弾の餌食に英雄も卑怯者もない。戰爭といふ暴力、それはもはや悪でさへな
い。悪なら善にも變らにと限るまい。

私は、學生の手記に現れた不安や懐疑の底に、彼等が見たに違ひないものを見
る。それを彼等は、仕方なく死といふ言葉で表現する。仕方なくだ。だが、それは
人間の死ですらないことを彼等は感じてゐることを私も感じる。それは化け物
だ。」
(「夕刊新大阪」、昭和二十五年一月)

-----
posted by Fukutake at 16:05| 日記

能 熊野(ゆや)

「謡曲を読む」 田代慶一郎 朝日選書 1987年

『熊野』を読む p100〜

 「花の雲の漂う「東山」より、「東路」へと思いを馳せていた熊野の耳に、力強い男の声音で音吐朗々と唱し上げられた詩句は、まずその音声としての効力によって彼女の注意を喚起する。…

  誰が言っし 春の色、
  げに長閑なる 東山

という冒頭の一句にしても、まず東山の春景色に対して熊野の注意をうながし、熊野に語りかけた宗盛の言葉と読める。−− 「誰の詩であったか、春の色は東より到るというのがあったが、まことにその通り。ほら見てごらん。今日の東山の景色は何と春らしくのどかなことか」。

 六波羅の宗盛館を出て、鴨川の堤から、東山の山容を見渡して、こう語りかけた宗盛に誘われて、同じように東山のかたを見やった熊野の心にも、このときようやくにして春色を愛づる心が生じたのである。かくて、熊野の心象裡にあって、単なる東への指標でしかなかった「東山」が、花の雲に彩られた現実の東山になる。だから、右の一句は宗盛の語りかけであると同時に、そこには、いっとき母ゆえの心配から解放され、陶然と東山の春景色に見とれた熊野の姿をも同時に読み取ることができる、言葉のイニシアティヴはもとより宗盛にありつつ、熊野もその咸興にまきこまれている。それまで、お互いに離ればなれの思いを抱きつつ出で立った熊野と宗盛の心が、春光を愛ずる感嘆の中に融和を見出し、ここにしばし唱和の世界を現出する。

 誰が言っし 春の色、
 げに長閑なる 東山。

四条五条の 橋の上、
四条五条の 橋の上、
老若男女 貴賤都鄙、
色めく 花衣、
袖をつらねて 行く末の、
雲かと見えて 八重一重、
咲く九重の 花盛り、
名に負う春の 景色かな、
名に負う春の 景色かな。

 東山から北へ廻らした視線が鴨川の四条五条の橋の上の華やいだ近景の賑わいへと転じ、再び花の雲のたなびく遠景に転じて、ついには都全体の春景色を包括し、その「九重の花盛り」への賛嘆の言葉で結ばれるこの一節は、春の京を描いて、まことに名文たるを失わぬ。さらに、ここには、春の華やぎのみ浮き立っていて、どこといって一点も翳りをとどめることがない。」

---
まさに謡うべき一句。京都の春景を彷彿とさせます。
posted by Fukutake at 08:29| 日記