2021年03月04日

賞罰の摘要

「商君書」−中国流統治の学− 商鞅  守屋洋 編訳 徳間書房 1995年

錯法篇(賞罰の適用) p212〜

 「臣下の統率」 こう語る人がいる

「君主たる者、あらゆる事態に虚心になって対応すれば、臣下の動きが手にとるように見えてきて、かれらの策動を封じこめることができる」
 しかしこれはちがうと思う。
 官吏というのは、権限を与えられて千里も遠方のことまで決済しているのだが、毎年十二月に報告書を作成し、一年間の業務内容を奏上してくる。君主はその報告を聴取する。そのとき、かりに疑惑をいだいたとしても、そうだと決めつけることはできない。なぜなら証拠が十分ではないからである。

 ただし、目のまえで起こったことはいやでも目に入ってくるし、近くで語られたことはいやでも耳に入ってくる。それらのことに対しては、おのずから対処することもできるし、反論することもできる。だから、まともな政治が行われている国では、しょせん人民は悪事を隠しとおすことはできない。それはちょうど、いちど目で見たものがいつまでも心に焼きついているようなものである。

 だが、でたらめな政治が行われている国では、そんなわけにはいかない。もともとそういう国は大勢の官吏をかかえこんでいる。だが、員数ばかり多くても、同じ利害関係で結ばれている。これでは互いに監視させることなど、できるわけがない。先王が連帯保証制度をとりいれることができたのも、臣下同士が利害関係を異にしていたからである。

 理想の政治とは、たとえ夫婦や友人の間柄でも、悪事を見逃したり不正を蓋い隠したりせず、それでいて親しさが損なわれないようにすることである。そうすれば、人民は互いに隠しあうこともしなくなるであろう。
 君主と官吏は、する仕事は同じだが利害を異にしている。たとえば、馬を世話する馬丁である。かれらを互いに監視させることができない。なぜなら、やっている仕事は同じだし、利害関係も同じだからである。もし馬に話をさせることができたなら、馬丁どもの悪事を遠慮なく告発するにちがいない。なぜなら馬と馬丁は利害関係を異にしているからである。

 利害が同じでやっている悪事も同じなら、父親といえども息子を叱ることができないし、君主といえども臣下を叱責することはできない。官吏と官吏の関係も、それとまったく同じである。やっている仕事は同じでも利害関係を異にしているからこそ、先王もそれを手がかりにして臣下を正すことができたのだ。人民は君主の目を覆い隠そうとするもの。だからといって君主はいささかも障害にならない。原則さえ守っていれば、知恵のまわる人間でも指一本ふれさせることができないのである。

 初めから賢者や知者を登用しないこと、これが政治の術策である。」

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posted by Fukutake at 11:14| 日記