「新編 日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳 角川ソフィア文庫
日本人の微笑(1) p299〜
「言い古されたことではあるけれども、イギリス人は生真面目で深刻な国民だと言われてきた。それもうわべだけの真面目さではなくて、民族の性格の根底に至るまで深刻そのものだというのである。同じような言い方が許されるとすれば、日本人は決して生真面目で深刻とはいえない。うわべも本音も、われわれイギリス人よりずっと深刻でない民族と比較してさえ、そう言うことができるだろう。
日本人は、深刻さに欠けている分だけ、より幸せなのであり、多分現在でも、文明化された世界では最も幸せな国民であると思う。西洋の生真面目な民族たるわれわれイギリス人は決して、自分たちは非常に幸福です、などと言うことはできない。実際のことろ、われわれは、自分たちが現在でもどんなに生真面目なのか、知り尽くしているわけではない。そして将来、膨張しつづける産業社会の生活の重圧に打ちひしがれて、さらにどれだけくそ真面目で深刻になろうとしているかを知ろうものなら、びっくりして唖然としてしまうことだろう。
ところで、長い年月をわれわれよりずっと深刻ぶらない傾向をもつ国民の間で暮らしてみることは、われわれ自身の気質を自覚する上で最良の方法ではないだろうか。こういう確信を私が抱くようになったのは、ほぼ三年にわたる日本の内地での生活を終えて、開港地神戸で数日間、イギリス流の生活に復帰した折のことだった。イギリス人の英語の発音を再び耳にしてこれほど感動しようとは、私には予想できなかった。しかし、それも束の間の感動でしかなかった。
私が開港地へ戻ったのはいくつか買い物をする必要があったからだが、つきあってくれた日本の友人にとっては、外国人の生活が丸ごと新鮮で素晴らしいと思われるようだった。そして、その友人がわたしに面白いことを質問してきたのである。
「外国人たちはどうしてにこりともしないのでしょう。あなたはお話しなさりながらも、微笑を以って接し、挨拶のお辞儀もなさるというのに、外国人の方が決して笑顔を見せないのは、どういうわけなのでしょう」
この友人が言うように、私はすっかり日本のしきたりに染まっていて、西洋式の生活に触れる機会を持たなかった。そう言われて初めて、自分自身がどこか奇妙な振る舞いをしていたことに気づいたのである。これは二つの民族が、お互いに理解し合うことの難しさの格好の実例であると思われた。双方はごく自然に、相手のしぐさや心情を自分たちの流儀で推し量り、結局は誤解して受けとめているのである。日本人がイギリス人の厳粛な態度に不可解なものを感じるとすれば、イギリス人は、あえて言えば、日本人の軽さに同様な不信感をもっているのであろう。…」
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相互理解の難しさ。経験してみるとよくわかる。