2021年03月18日

パリのキャフェ

「下駄で歩いた巴里」 林芙美子紀行集 岩波文庫

巴里 p124〜

 「…巴里のキャフェは素的だ。それも、街裏の小キャフェになると、空気は至って閑散で、一法二十文のカフェ一杯で孫の悪口をいっている婆さんたちや、西洋将棋に耽っている青年たち、ケイコをつけている小楽団、その他、トランプをしている者、冗談を云いあっている女房たち、全く呑気至極で腹さえ空かねば一杯のキャフェで朝から晩までも居坐っていることができる。

 私は部屋の電気が暗いので、仕事をする場合と云えば、たいていキャフェで仕事をすることにきめていた。不思議に、日本のように雑音が気にならないし、誰でもセッセとキャフェで仕事をしているのを見ると、案外これが常の生活なのかも知れないと考えたりする。ボーイは男だし、チップは一割だし、非常にそこのところは呑気にかまえていい。ただし、夜になって女が一人でキャフェに出かけたりすると、毛色の変わった女だと男の方からウインクされることがあって驚くそうだけれど、そんなことはどうでもいいとして、街裏に行くほど呑気なキャフェが多い。何が美味しいといって巴里のコヒーほど美味しいものはない。私は朝々三日月パン一ツで、このキャフェをすすりながら食事を済ませた。

 私は巴里で四軒ばかりもアパルトを変ったけれど、どの部屋も哀愁こもごもでみんないいアパルトばかりであった。
 巴里の街へきたての或る日本の紳士が、「巴里は二様の街の天使がいますね。一ツ売笑婦で一ツは巡査ですが、そう思いませんか」といっていたことがある。なるほどそう云われてみると、巴里ぐらい売笑婦の多いところはないだろう。また、巴里ぐらい、短いマントウを羽織った巡査の姿のやさしい都会はないだろう。夜学の帰り、おそくなると、私はたびたびこのマントウを着た巡査君にアパルトまでおくってきて貰った。チップに一法もやれば、門番が出てくるまで、ゴエイしていてくれるのだし、巴里のお巡りさんはなかなか重宝なものである。ヨーロッパをめぐって、巴里は一番自由な国であり、お上りさんのよろこびそうな街だ。その自由な街に、私は約八ヶ月ほど住んでいたけれど、帰るまで私の仏蘭西語が片言であったように、こうして書いている私の巴里観も、ショセンここでは片言のイキを脱しないのである。」
(1931年)

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法:フラン(1930年代では1フラン500円くらいか)

posted by Fukutake at 08:31| 日記

2021年03月17日

漱石の墓参

「漱石全集 第二十二巻」 初期の文章 岩波書店 

無題 p230〜

(漱石が明治三十六年一月ロンドン留学から東京に帰ってきて、亡友子規の墓に詣でた時の感想)

 「水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壊は尋ぬべからず。汝の心われを残して消えたる如く吾の意識も世をすてて消える時来るべし水の泡のそれの如き死は獨り汝の上のみにあらねば消えざる汝が記憶のわが心に宿るも泡粒の吾命ある間のみ 

 淡き水の泡よ消えて何物をか藏む汝は嘗て三十六年の泡を有ちぬ生ける其泡よ愛ある泡なり信ある泡なり憎悪多き泡なりき□しては皮肉なる泡なりきわが泡若干歳ぞ死ぬ事を心掛けねばいつ破るると云ふ事を知らず只破れざる泡の中に汝が影ありて前世の憂を夢に見るが如き心地す時に一辨の香を燻じて此の影を昔しの形に返さんと思へば烟りたなびきわたりて捕ふるにものなく敲くに響なきは頼み難き曲者なり罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき随處に聲ありて死々と叫ぶ片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く罪業の影ちらつきて定かならず亦土臭し汝は罪業と死とを合わせ得たるものなり

 霜白く空重き日なり我西土より帰りて始めて汝が墓門に入る爾時汝が水の泡既に化して一本の棒杭たりわれこの棒杭を周る事三度花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ」

(明治三十六、七年頃)

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posted by Fukutake at 15:02| 日記

2021年03月16日

勉強のみの生活

「福翁自伝」 福沢諭吉 著 富田正文 校訂 岩波文庫
緒方洪庵 塾の風景 p80〜

「おおよそ塾生は、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ 一寸一目見たところろではーー今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問ど ころのことではなく、ただワイワイしていたのかと思うでありましょうが、そこの一段に 至っては決してそうではない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾 生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱 病を煩うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座布団がなにかを 括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと 思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるそ の家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜 してもないと言うので、不図(ふと)思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居た が、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時に何時でも構わぬ、殆ど昼夜の区別 はない、日が暮れたらといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。読書に草臥 れ眠たくなって来れば、机の上に臥して寝るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を 枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどというこ とは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕 はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。こ れでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない。同窓 生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し) ようはないというほどに勉強していました。 それから緒方の塾に這入ってからも、私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時 分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというの が、今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を 読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコトコト飯を焚く仕度をすると音が聞こえと、それ を合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上ったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯 に這入って、それから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の 塾に居る間ほとんど常極(じょうきま)りであった。勿論衛生などということは頓(とん) と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれど も、誰も気が付かなかったのか或いは思い出さなかったのか、一寸でも喧しく言った ことはない。それで平気で居られたというのは、考えてみれば身体が丈夫であったの か、或いはまた衛生々々というようなことを無闇に喧しく言えば却って身体が弱くなる と思うていたのではないかと思われる。」

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posted by Fukutake at 09:42| 日記