「ももこの いきもの図鑑」 さくらももこ 集英社文庫 1998年
アユ p65〜
「川から釣ってきたばかりのアユは、涼し気なスイカの匂いがする。なぜ私がアユの体臭まで詳しく知っているかというと、父ヒロシの趣味がアユ釣りだったからである。
父ヒロシは毎年夏になるとアユを釣りに川へ通っていた。アユは人の手によって放流されるものが多く、天然ものはめったに見つからない。だからアユが放流されている川で釣りをする場合は鑑札が必要で、釣り人は毎年鑑札を購入して釣りの解禁日を待っているのだ。
父ヒロシも例年通り鑑札を購入して解禁日を待っていたが、ある日ふと通りがかった小さな川に天然のアユがウヨウヨ泳いでいるのを発見し、狂喜した。“解禁日の前にアユ釣りができる…!!”
ヒロシは興奮しながら家に戻り、釣り竿を握りしめて再び家を出た。もう家業の八百屋のことなんてどうでもいいという様子であった。母は「おとうさん、ちょっとアンタ、店やってんのに冗談じゃないよ」と言ってヒロシの行く手をはばもうとしたが、ヒロシの勢いはダムの放水の如く手のつけようがなかった。
猛然と家をとび出したヒロシと一緒に、当時小学三年生だった私もついて行った。ヒロシは「天然のアユだからな。すげえぞ。カラ揚げにして食ったらうめえぞ」と得意になって車を運転していた。
川に着くと、本当にアユが泳いでいるのが見えた。ヒロシは居ても立ってもいられない様子で、早速釣りを始めていた。
すぐにアユが釣れた。まだ全長が5センチ程の小さいアユであった。少しかわいそうな気もしたが、それにしても面白い程よく釣れる。釣り糸を川に投げたとたんに釣れるのだ。まさしく“入れ食い”である。
私とヒロシは、「うひょ〜」等という叫び声を発しながら次々にアユを釣り上げた。河原には私達しかいなかった為、我々の欲望はとどまるところを知らず、見境もなく日が暮れるまで釣りは続けられた。
数えてみたら200匹も釣っていた。こんなに釣れた事は後にも先にもない。
「大漁だ大漁だ!!」と景気よく家に帰ると母は「こんな小さいアユを200匹も捕るなんて人間として最低だよ。かわいそうじゃないか」と非常に我々を非難したが、カラ揚げにしたアユを一番多く食べたのは他でもない彼女であった。」
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2021年03月22日
相手の利を説く
「戦国策」 近藤光男 講談社学術文庫 2005年
出兵の催促 p84〜
「秦と魏とが同盟国となった。斉・楚は盟約を結んで魏を攻めようとした。魏は使いを出して秦に救援を求めさせ、その使者は、かむる冠も、乗る車の蓋も、互いに望見できるほどに相継いで送られたが、秦の救援軍は出されなかった。そのとき魏の人で唐且という者、歳は九十を超えていたが、魏王に、「老臣が、西の方秦に説いて、私が帰るより先に秦の軍が出されるようにさせていただきましょう。よろしいでしょうか」と言った。魏王は「ありがたく、お受けしよう」と言い、車を調えて派遣した。唐且が秦王にまみえると、秦王は言った。「御老体には、はるばるここまでおいでいただいて、たいそうお疲れのようす、誠に御苦労である。魏からはたびたび救いを求めて来ているので、私には魏の危急がよく分かっている」と。
唐且は答えて言った。「大王がすでに魏の危急を御存知でありながら、救援部隊が着きませんのは、大王のもとで策謀を巡らし奉る臣下に、その任に耐える人がいないからです。魏がりっぱに万乗の国の一つでありながら、秦の東の藩屏と称し、秦の衣冠束帯の制度を受け、春秋に貢物をささげて秦の祭祀を助けておりますのは、秦の強さが同盟国とするに足ると思ってのことでございます。いま、斉・楚の軍は、すでに魏の郊外におりますのに、大王の援軍は参りません。魏が危急になれば、土地を割譲して斉・楚と盟約を結ぶことになりましょう。王がそうなってからお救いになろうとしても、間に合うものではありません。それには一つの万乗の国、魏をお失いになり、しかも二つの敵国、斉・楚を強くしておやりになることです。失礼ながら、大王のもとの策謀の臣に、その任に耐える人がいないのだと思います。」
秦王は危険に気づいて思わずため息をつき、急遽、援軍を出動させ、夜を日に継いで魏へと向かわせた。斉・楚はそれを聞いて、やむなく兵を撤して帰った。魏の国が平穏な状態にもどったのは、唐且の遊説あってなのである。
(三五四 魏下 安釐王 4)
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相手の利を説く。
出兵の催促 p84〜
「秦と魏とが同盟国となった。斉・楚は盟約を結んで魏を攻めようとした。魏は使いを出して秦に救援を求めさせ、その使者は、かむる冠も、乗る車の蓋も、互いに望見できるほどに相継いで送られたが、秦の救援軍は出されなかった。そのとき魏の人で唐且という者、歳は九十を超えていたが、魏王に、「老臣が、西の方秦に説いて、私が帰るより先に秦の軍が出されるようにさせていただきましょう。よろしいでしょうか」と言った。魏王は「ありがたく、お受けしよう」と言い、車を調えて派遣した。唐且が秦王にまみえると、秦王は言った。「御老体には、はるばるここまでおいでいただいて、たいそうお疲れのようす、誠に御苦労である。魏からはたびたび救いを求めて来ているので、私には魏の危急がよく分かっている」と。
唐且は答えて言った。「大王がすでに魏の危急を御存知でありながら、救援部隊が着きませんのは、大王のもとで策謀を巡らし奉る臣下に、その任に耐える人がいないからです。魏がりっぱに万乗の国の一つでありながら、秦の東の藩屏と称し、秦の衣冠束帯の制度を受け、春秋に貢物をささげて秦の祭祀を助けておりますのは、秦の強さが同盟国とするに足ると思ってのことでございます。いま、斉・楚の軍は、すでに魏の郊外におりますのに、大王の援軍は参りません。魏が危急になれば、土地を割譲して斉・楚と盟約を結ぶことになりましょう。王がそうなってからお救いになろうとしても、間に合うものではありません。それには一つの万乗の国、魏をお失いになり、しかも二つの敵国、斉・楚を強くしておやりになることです。失礼ながら、大王のもとの策謀の臣に、その任に耐える人がいないのだと思います。」
秦王は危険に気づいて思わずため息をつき、急遽、援軍を出動させ、夜を日に継いで魏へと向かわせた。斉・楚はそれを聞いて、やむなく兵を撤して帰った。魏の国が平穏な状態にもどったのは、唐且の遊説あってなのである。
(三五四 魏下 安釐王 4)
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相手の利を説く。
posted by Fukutake at 08:14| 日記
2021年03月19日
戦後の二十五年間
「三島由紀夫全集 34 評論 X」 新潮社 1976年
私の中の二十五年
「私の中の二十五年を考へると、その空虚さに今さらびつくりする。 私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたの だ。 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を變ヘはしたが、今もあひか はらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろ くべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義 とそこから生ずる僞善といふおそるべきバチルス*である。 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へて ゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進ん で、それを自分の體質とすることを選んだのである。政治も、経済も、 社会も、文化ですら。 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい藝術至上主義者だと 思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。或る種のひよわな青年は、 抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の 冷笑・自分のシニシズム*に對してこそ戰はなければならない、と感じ るやうになつた。 この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。私の幸福 はすべて別の源泉から汲まれたものである。
(中略)
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失つた。原因はすべ
て私のわがままに據る。私には寛厚といふ徳が缺けてをり、果ては上田
秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。
自分では十分俗悪で、山氣もありすぎるほどあるのに、どうして「俗
に遊ぶ」といふ境地になれないか、われとわが心を疑つてゐる。私は人
生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戰つてゐるのが、一體、人
生を愛するといふことであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしま
つたやうな今日でも、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、
しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。
これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつて
ゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま
行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに
深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な。抜け目がない、或る経済的大國が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私
は口をきく氣にもなれなくなつてゐるのである。」
バチルス* ばい菌
シニシズム* 犬儒的。社会規範を蔑視し、与えらたものだけで満足する 犬のような生活を理想とする生き方。
(初出)果たし得てゐない約束「サンケイ新聞・昭和四十五年七月七 日」
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私の中の二十五年
「私の中の二十五年を考へると、その空虚さに今さらびつくりする。 私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたの だ。 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を變ヘはしたが、今もあひか はらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろ くべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義 とそこから生ずる僞善といふおそるべきバチルス*である。 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へて ゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進ん で、それを自分の體質とすることを選んだのである。政治も、経済も、 社会も、文化ですら。 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい藝術至上主義者だと 思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。或る種のひよわな青年は、 抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の 冷笑・自分のシニシズム*に對してこそ戰はなければならない、と感じ るやうになつた。 この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。私の幸福 はすべて別の源泉から汲まれたものである。
(中略)
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失つた。原因はすべ
て私のわがままに據る。私には寛厚といふ徳が缺けてをり、果ては上田
秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。
自分では十分俗悪で、山氣もありすぎるほどあるのに、どうして「俗
に遊ぶ」といふ境地になれないか、われとわが心を疑つてゐる。私は人
生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戰つてゐるのが、一體、人
生を愛するといふことであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしま
つたやうな今日でも、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、
しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。
これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつて
ゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま
行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに
深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な。抜け目がない、或る経済的大國が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私
は口をきく氣にもなれなくなつてゐるのである。」
バチルス* ばい菌
シニシズム* 犬儒的。社会規範を蔑視し、与えらたものだけで満足する 犬のような生活を理想とする生き方。
(初出)果たし得てゐない約束「サンケイ新聞・昭和四十五年七月七 日」
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posted by Fukutake at 12:53| 日記