2021年03月29日

単純

「面白さは多様性に宿る」 養老孟司 
「現代思想」2017 3月臨時増刊号より 青土社

p9〜
 「単純」は「美しい」か?

 私は昔から「真理は単純である」「単純なものは美しい」という二つのことに納得がいっていません。「真理は単純かもしれないけれど事実は複雑ですよ」と、いつも言い返しています。生物を研究すると真理を一口で言えない気がします。もう一つの「単純なものは美しい」は、シンプルになると美しいということだと思いますが、シンプルなものはシンプルなだけで、美しいと思ったことはありません。それならごちゃごちゃしていれば美しいかというとそれも問題ですが、この二つがごく普通に言われることだということはわかります。ひょっとすると使用している文字の問題もあるのかなと思います。アルファベットは単純ですが、漢字はかなり厄介です。そういう文化的な背景がないかとも考えました。漢字を使っているとごちゃごちゃしているほうが本当のような気がするのです。

 「美しい」ことをテーマとして考えたことはあまりないですが、絶対にいう人がいるなと思ったのが、『セオリー』でドーキンスも取り上げているダーウィンの自然選択説です。生き物が時間とともに変化する。それは発生と進化の問題です。ダーウィンは進化を扱っていますが、進化は基本的に実験室に持ち込むことができないので実証できない。だから発生を使うエボデボなどの進化発生学が盛んなのです。発生だけなら実験室に持ち込めます。では進化と発生の共通点は何かというと、動物の形が時間とともに変化することです。われわれが時間とともに変化するものをどのように頭のなかで扱い形式化できるか、あるいは記述できるか。その記述の仕方は脳みそがやるので時間の取り扱い方が問題になるわけですが、記述されたものは時間を含んでいません。ビデオに録画して繰り返し見ても同じ内容ですから時間は止まっています。そこに初めから矛盾があるということがわかるわけです。時間を含まない記述という形式でいかに時間を含んで記述するかという問題が根本にあります。…

 記述のしたものそれ自体は置換されていきますが変化はしません。そうやって考えていくと、記述の歴史そのものが生物の進化に投影されているのです。私は、自然選択説は情報の選択説であると理解しています。情報は単体で存在しますが、それが時代とともに生き残るかどうか、それを自然淘汰と言うのです。つまり、私が言ったことが環境に合わないとあっという間に消え、合っていれば生き残るという話です。…」

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同種の中でも何かの拍子で生き残った集団が、また何かで淘汰され、また淘汰され、結果として今生き残っている形をして結果としての形質変化を進化と呼んでいるのでは。

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posted by Fukutake at 16:09| 日記

相対と絶対

「思索と体験」西田幾太郎 著 岩波文庫

ベルグソンの哲学的方法論 p125〜

「哲学即ち絶対の学問というのは如何なるものであろうか。ベルグソンに従えば、物 には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである。或一つの立脚地から見る のである。それで、その立脚地によって見方も変わってこなければならない。立脚地 が無数にあることができるから、見方も無数にあるはずである。またかく或立脚地か ら物を見るというのは物を他との関係上から見るのである、物を他と関係する一方面 だけ離して見るのである、即ち分析の方法である。分析ということは物を他物によって 言い表すことで、此方の見方はすべて翻訳である、符号Symbolによって言い現わす のである。

もう一つの見方は物を内から見るのである。着眼点などというものは少しも ない、物自身になって見るのである、即ち直観 Intuitionである。従ってこれを言い現 わす符号などというものはない、いわゆる言絶の境である。右二種の見方の中には 第一の見方ではいかに精緻を極めても、畢竟物の相対的状態を知るに過ぎぬ、到底 物其物の真状態を知ることは出来ない、ただ第二の方法のみこれによって物の絶対 的状態に達することはできるのである 例えば空間における一物体の運動ということでも、我々はこれを種々の立脚地から 見ることができ、また種々の方法で言い現わすことができるであろうが、そは皆外か ら見たので、ただその相対的状態を知るにすぎない。運動其者の絶対的状態を知る には、我々は動いた物の内心があるように見て、これと同感し、その状態に自分を置 いて見るのである。

相対と絶対とを比較すると、恰も或市を種々の方向からとった写 真と市其者の実見との差異の如きものである。写真を幾枚あつめたとて実物の知識 のようにはならぬ。また例えば希臘語を知りおる者がホーマーの詩をよめば単純なる 一印象を留めるのみであるが、さてこれを希臘語を知らぬ者に説明して聞かそうとす ると如何に説明しても説明しつくすこができぬ。かかる絶対的状態は内より直観する にあらざれば到底これを知ることができぬ。 科学というのは分析の学問である、符号によって説明するのである。科学の中にて 最も具体的といわれておる生理学の如きものすら、単に生物の機関の外形を見て、 その形を比較し、その機能を論ずるまでである、終始有形的符号によって見ているの である。哲学はこれに反して直観の学問である、物自身になって見てその絶対的状 態を捕捉するのである、符号を要しない学問である。」
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posted by Fukutake at 08:20| 日記

2021年03月25日

どっぷり

「こころの処方箋」 「こころの処河合隼雄 新潮文庫

どっぷりつかったものがほんとうに離れられる p143〜

 「…しがらみから離れようと無理をしすぎるため、表面的には自立しているように見えても、深いところではひっついていたり、ともかくべたべたとひっつくことを期待していたりする。このため、他の人と適切な人間関係が結べないのである。急に接近したり、切れなくてもよいときに急に切ろうとしたり、チグハグになって来る。そして、自立しているはずの母親からの影響が、思いがけないところで出てきたりするのである。

 もっとも、どっぷりつかるのと「溺れる」のとは異なる。溺れる人はやたらとあちこちしがみつくが、そこを離れることはできない。
 子どもがファミコンなど熱中するとき、それにどっぷりつからせるのは、そこを離れるためのよい手段となる。好きなだけやらしているなどと言いながら、親が変に気にしたり、イライラしたりしていると、それは「どっぷり」とは言い難い。子どもの勝手にやらせて、親はわれ関せずとなると、子どもは溺れるかも知れない。もっとも優秀な子だと、それでも自分から離れてゆくかも知れない。しかし、一般には、「どっぷり」体験をするためには、そこに人間の信頼ということが存在する必要があるようだ。

 幼少期に母親とうまく「どっぷり」体験をもった人は幸福である。しかし、それがなくとも、人間はその後の人間関係や、その他の世界との関係で「どっぷり」体験をすることができるものである。それは、その人の個性と大いにかかわるものとして、創造源泉となることもある。

 どっぷりつかるのと溺れることとは似ているので、そこには恐怖感が伴うこともある。溺死すれすれの「どっぷり」などというのも無いことはない。しかし、そこを体験しないとなかなか次のところへ進んでゆかれないものである。本当に「どっぷり」体験しようとする人は、恐怖を乗りこえる体験をする点でも意味があるとも考えられる。」

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中途半端はダメ
posted by Fukutake at 08:27| 日記