2021年02月26日

本を買う気合い

「ホンの本音」 群ようこ 角川文庫 

心変わりされた本は悲しい p20〜

 「先日書店で本を何冊か買い、レジに持っていこうとして、ふと外国文学のコーナーに目がとまった。「知らないうちに出物がひっそり出版されているかもしれない」と。棚や平台を点検していたら、私がいちばん最初に出した本がカネッティの「眩暈」(法政大学出版局)の隣にボーッといた。「何であんたがこんなところに」とビックリしたが、これは誰かがレジに持っていく寸前に心変わりして、そのへんにほったらかしにしたに違いない。私もほったらかしにはしないけれど、何冊か本を買ったときに、突然、心変わりすることがよくあるからだ。

 本を買いにいくときには、無意識のうちにランク付けをしている。
A「何がなんでも、注文しても欲しい本」
B「書店にあれば欲しい本」
C「別に急いではいないが、買っておいたらいつかは読むであろう本」

 おおまかに分けてこの三種類である。Aの本があるとこれはうれしい。思わず頰がゆるんでしまう。Bも棚にあるのを発見したときはなかなかの喜びがある。「ここの書店員はエライ!」と誉めたたえたくなる。問題はCである。AやBの本を見つけて腕に抱えていると、気分はハイになってくる。こういうときにCの本を見てしまうと勢いで買ってしまうわけである。そして「うひひ」と思いながらふと横の棚を見るとBの本がいる。ここで胸は揺らぐ。あのBの本も欲しい。でもそんなにお金はない。となると、今、手に持っているうち、Cの本をふるいにかけるしかない。買い手のそのときの勢いをのがしたらそれっきりという、どうも情けない本なのだ。
 誰かにとって、私の本はCランクだった。
「あんたもふびんな奴だねえ」
 私はそうつぶやきながら心変わりされた自分の本を、ちょっとムッとしながらあるべきところに戻しにいったのである。」

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確かに本を買うのは勢いだ。
posted by Fukutake at 11:13| 日記

2021年02月25日

漂白者

「さまよえる魂のうた」 小泉八雲コレクション 池田雅之編訳 ちくま文庫

幽霊 p63〜

 「思うに、生まれ故郷を離れて旅したことがない人は、幽霊(ゴースト)というものを知らずに一生を過ごすのではないだろうか。しかし、漂泊の旅人は幽霊のことをよく知っているようだ。漂泊の旅人というのは、文明人のことである。何かの目的や楽しみのために旅をするのではなく、ただひたすら己の存在につき動かされて旅に出る人のことである。
 内に潜んだ生まれつきの性が、たまたま自分の属してしまった社会の安逸な情況に溶け込めない。そのような人は教養も知性もありながら、わけもなく奇妙な衝動の虜になっているにちがいない。その衝動が抗いきれないほど圧倒的で、しかも世俗的な欲望をもことごとく蹴散らしてしまうことに、本人自身も戸惑ってしまうのだ。

 ……そのような衝動は、おそらく祖先の性癖に由来するのではないだろうか −− つまり、遺伝的な特質と説明すれば、合点がゆくのではなかろうか。それとも、そうではないのであろうか。漂泊の衝動の虜になった人はただ、初めから自分の中にあった渇望の幼虫が育って成虫になったのだと思うしかないのだ。限りある生の連鎖の中で、長いあいだ内に眠っていた渇望が、時満ちて溢れだしたのだと…。

 確かに、漂泊の衝動は人によって異なる。人は感じ方から境遇にいたるまで千差万別であり、ある人にはなんら抵抗が感じられないものが、別の人にとっては、これ以上ありえないほどの抵抗を感じさせたりする。漂泊の旅に至る道には、ひとつとしてまったく同じものはない。衝動がどこから生まれ、どこへ続くのかが人によって違うのは、人の性格がさまざまであるのと同じことなのだ。

 時間という意識が生まれて以来、同じ声を持つ人はいないし、同じ性格を持つ人もいない。つまり、潜在的な力を持つ目に見えない分子が、まったく同じように組み合わさって生まれた存在などはひとつもないのである。だから、そのような存在である人間の心理を詮索しようとしても空しく、そうしたところで、はたかた観察した狭い範囲で推し量るのがせいぜいのところだ。…

 理由なき別離、自暴自棄、突然の孤立、そして、愛着あるすべてのものからの不意の断絶。ここから、漂泊の旅人の履歴が始まるのである。…旅人は感じている。奇妙な沈黙が自分の人生に深く、静かに広がっていることを。そして、その沈黙の中に幽霊がいることを。」
(“Ghost” Karma, 1918)

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月日は百代の過客にして…
posted by Fukutake at 08:35| 日記

2021年02月24日

漱石、小説家となる

「漱石全集」 第二十二巻 岩波書店 一九五七年

初期の文章 (漱石以前の文)

 人生 p217〜
 「空を劃して居る之を物とい日、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉えて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平仮名にて翻訳すれば、先ず地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と鹽との区別を知り、戀の重荷義理の柵抔いふ意味を合点し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくぐるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢百端千差萬別、十人に十人の生活あり。百人に百人の生活あり。千百万人亦各千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席暖かならず、墨突黔せずとも云ひ、變化の多きは塞翁の馬に辵をかけたるが如く、不平なるは放たれて澤畔に吟じ、壮烈なるは匕首を懐にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の蕨に余命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、圖太きは南禅寺の山門に晝寐して王法を懼れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之個人の一行一爲、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刀を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかかるべし、況して國に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、万乗には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即ち一なるが如し、若し人生をとつて鉄分縷析するを得ば、天上の星と磯の眞砂の數も容易に計算し得べし。

 小説は此錯雑なる人生の一側面を写するものなり、一側面猶且単純ならず、去れども写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を教ふるに足る、われ「エリオット」の小説を読んで天性の悪人なきを事を知りぬ、…」
(明治二九、一〇、第五高等学校『龍南會雑誌』、漱石三十歳の時)

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すでに人生追求の文豪の姿あり。
posted by Fukutake at 13:55| 日記