2020年12月31日

人生における幸福

「わが人生観 2」亀井勝一郎 大和書房 1968年

人生 p13〜
 「邂逅−−人生の幸福
 人生とは何ぞやという広漠たる問題に私は答えることはできない。しかし自分の半生をかえりみて、なるほど、これが人生というものであろうかと、はっきり感じさせられたものはある。それは私を一人間として育ててくれたもの、現に育ててくれつつあるその条件である。私は自分一個の力で生きているわけではなく、自力で成長しているわけでもない。書物を通して接したさまざまな先師、あるいは現存している先輩友人の導きによって人間と成ってきたわけで、条件とはつまりこの相伝相続をいうのである。
 人生とは広大な歴史だといっていい。歴史とは無数の人間の祈念と願望の累積だといってもいい。あるいは果たそうとして果たしえなかったさまざまな恨みを宿すところともいえるだろう。私はそれを学びつつ、やがて、自分もつかの間にしてその歴史の中に埋没してしまうことを知る。人間の一生は短いものだ。しかし自分は生きていると、たしかに感じさせるものがあるわけで、私はそれを右のごとくいってみたのである。したがって人生における一大事、人生を人生として私たちに確認させるものは、一言でいうなら邂逅であるといってよい。
 青春時代とは第二の誕生日である。自我を覚醒する日であるが、そのとき「われ」を誕生せしむる機縁がすなわち邂逅である。書物でもいい。師匠でも友人でも恋人でもいい。だれに出会ったかということが重大だ、そして邂逅によって結ばれた友情に、私は人生の人生たる証を見ようと思うのである。むろん友情とは単なる遊び仲間の交情という意味ではなく、悩める魂と魂との格闘による結合をいう。書物との関係も、私はこの関係において見る。邂逅と友情こそ人生の重大事ではなかろうか。
 もしこのとき、この人(あるいは書物)に会わなかったならば、自分はどうなっていたであろうと思うことがある。そこに生ずるのは謝念である。人生に対する謝念とは邂逅の歓喜である。たとい貧苦病身災難のうちにあろうとも、邂逅の歓喜あるところに人生の幸福があると私は思っている。私はそれ以外の人生の幸福を信じない。」

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posted by Fukutake at 09:05| 日記

お化けの話

「妖怪談義」 柳田国男 著 講談社学術文庫

p13〜
 「化け物の話を一つ、出来るだけまじめに又存分にしてみたい。けだしわれわれの文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。わたしの目的はこれによって、通常の人生観、わけても信仰の推移を窺い知るにあった。しかもこの方法をやや延長するならば、あるいは眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致し、改宗せしめるの端緒を得るかも知れぬ。もしそういう事ができたら、それは願ってもない副産物だと思っている。
 私は生来オバケの話をする事が好きで、又至って謙虚なる態度を以って、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うなら相手が悪くなったからである。先ず最も通例の受返事(うけこたえ)は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものはあるものでございましょうかと来る。そんな事はもう疾(とく)に決しているはずであり。又私がこれに確答し得る適任者でないことは判っているはずである。すなわち別にその答えが聴きたくて問うのではなくて、今はこれより外のあいさつをしようを知らぬ人ばかりが多くなっているのである。偏鄙な村里では、怒る者さえこの頃はでて来た。なんぼわれわれでも、まだそんな事を信じているかと思われるのは心外だ。それは田舎者を軽蔑した質問だ、という顔もすれば又勇敢に表白する人もある。そんならちっとも怖いことはないか。夜でも晩方でも女子供でも、キャッともアレエともいう場合が絶滅したかというと、それとは大違いの風説はなお流布している。何の事はない自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けているのである。まだしも腹の底から不思議なことのないことを信じて、やっきとなって論弁した妖怪時代がなつかしいくらいなものである。ないにもあるにもそんな事は実はもう問題ではない。われわれはオバケはどうでもいるものと思った人が、昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。」
(本文の執筆は、昭和十三〜十四年頃)

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不思議を不思議と思える強い意志が必要。

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posted by Fukutake at 09:03| 日記