2020年12月04日

真贋判定

「真贋」 小林秀雄 世界文化社 2000年

 高野山にて p69〜
 「先日、高野山で、有名な明王院の赤不動を初めて見た。伝説では、園城寺の黄不動とともに智証大師筆ということになっているが、専門家の間では、制作年代については種々の説があるようである。私のような素人には、その辺の消息は知り難いが、率直に言えば、評判のほどの名画とは受け取れなかった。印象は薄弱であった。いつか博物館で「黄不動」の模写を見たことはあるが、それにもはるかに劣るとさえ感じた。青蓮院の「青不動」に比べればこうれはもう問題ではないと思った。
 「阿弥陀二十五菩薩来迎図」もちょうど虫干しで、霊宝館に陳列されていたので、久し振りで見て、感動を新たにした。毎日飽かずながめた。私は、美術史なぞに暗いから、印象からいう他はないのだが、この来迎図と赤不動は、あんまり違い過ぎる。題材の相違、信仰対象の相違、宗教的儀礼形式の相違、そういうことではない。もっと根本的な、画としてのリアリティの相違を感じた。それは、画家の現した美しさのはっきりと感得できる問題なのであるが、残念ながら、これはうまく言葉に言い現し難いのである。
 画に何が描かれているかということは画の価値を決めるものではない。どういう風に描かれているか、その描かれ方に一切はかかっている。これほど解りきったことはない筈なのだが、実際には、まことに意外なほど大多数の人々が、その中には教養のある人も含まれているのだが、何が描かれているのかが先ず気にかかり、知らず知らずのうちに、それを基として画を判断しているのである。線だとか色だとかが作りあげる形の美しさの印象を長く保持していることは難しい。それが何かの意味を語りかけて来るまで待っていることは難しい。審美的な判断は、知的な判断と戦い、これに破れてしまうのである。私達の日常の視覚ではなく、画家というものに独特の修練された視覚、外を見るのでもなく、内を見るのでもなく、絵画という価値を見ている視覚、そんなものがあるかどうかを問うよりも、絵画の鑑賞とはそういうものを信ずることに他ならぬ、という事を率直に認めるべきであろう。かような画家のほとんど本能的な視覚が、時代精神のどんな深処に達し、これを造形によって暗示しているかを語るには、絵の審美的価値についての絶対の信頼から出発するより他はない。美術史家は解り切ったことだというであろう。あんまり解り切っているから、歴史の分析やら展望やらによって美術を知るという道を苦労して歩く。だれも解り切ったことで苦労しようとしない。」
(「新大阪新聞」一九五〇年九月二十六日)

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絵がわかるとは。
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昔からあった出稼ぎ

「明治大正史 世相編」柳田國男 講談社学術文庫 1993年

労力の配賦 p347〜
 「出稼ぎは今までただ乱雑な現象のように見られていたが、実はこれには系統もあり組織も立っていたのである。親方は職人や農民にばかりでなく、すべて一般労働者にもあった。内から見れば寄り子、外からいえば親方はあったのである。親方は寄り親であ理、村々の地親と起こりはやはり同じであった。寄り子はこの親方によって生活を保証され、その労力は支配されていた、常に出稼ぎの道が定まっている間は、それは家に対する共同の営みであったが、その仕事にむらができてくるとはなはだ不安になった。
 出稼ぎができない場合にはその労力は余り、ことに郷里の労働に適せぬ仕事を今までやり続けていた者は、村の労力へも自分だけは編入されぬことになって、それがしだいに孤独の漂泊者のごとき感を抱かしめるになった。それが新たにまた親方制度の必要を大にしたのである。寄り子は村から引きつれられて出て行かずとも、町に寄り親があれば、それを頼って行きさえすれば、職にありつくことはできた。
 寄り子には時代に応じてその盛衰があり、種類も従って多かった。たとえば髪結い職人、紺屋職、麺類職、料理人、鮨職人、天ぷら職人、牛鳥断肉夫、菓子職、湯屋男、妓夫妓女、馬夫、土こねなどたくさんの種類は草間八十雄氏の「水上労働者の寄子の生活」という書物の中に記されている。もっともその中でも合羽職や張り物職、醤油杜氏や米搗き、粉挽きなどは時代がその職人を要求しなくなると、やがて衰微しまた滅んだが、その代わりにボーイのごときものが寄り子として生まれると、その親方もまたできたのである。
 親方たる者は見知らぬ人を任侠を根元とする寛容性からこれを款待し、また人を見分ける力をも具備していなければならなかったのである。これらの親方は日雇組や町火消し、あるいは香具師等の仲間にも存したが、ただある階級だけが強固な団結と礼儀の正しさがあったと考えられるのは、それが目立った人々であったからで、必ずしも一部の人のみの特殊な組織ではなく、また大都市特有のものでもなかった。地方にも周旋業者が部屋または親方と呼ばれている例は今日もなお弘く存している。もちろんこれは以前の職人がこの部屋に草鞋をぬぎ、世話になった名残である。
 それが今日の桂庵式にまで変化したのである。」

(本書は柳田國男が昭和5年に執筆したもの)
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昔は出稼ぎが普通であった。

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posted by Fukutake at 11:05| 日記