2020年12月22日

幸運に後ろ髪はない

「ベーコン」 世界の名著25 責任編集 福原麟太郎 中央公論社 

随筆集より「遅延について」 p129〜

 「運というものは市場のようなものである。そこでは、多くの場合、少し同じところで待っていることができると、価格が下がるだろう。しかしまた、最初は品物を全部提供する。それから、少しずつ無くしていく。しかもいつも価格を維持している。というのは、機会というものは、前向きに髪の毛を見せて、誰もつかまえないとわかると禿げた後ろ頭を向けて、どうしてもつかまえることができないようにすることもある。あるいは、少なくとも、最初に、びんの首のところを出してつかまえさせようとしながら、あとでは胴を向ける。それはつかみにくいのである。たしかに、いちばんよい知恵というものは、ものごとのはじめと着手に時期をよくはかるということである。危険というものは、一度軽いように見えたら、もう軽いものではなくなる。人を力ずくで負かすというより、だましてしまうような危険の方が多いものである。じっさい、危険の中には、別に近寄ってこないにしても、途中まで出ていって迎え撃つ方が、その近寄ってくるのを、あまり長く見はっていすぎるよりもよいこともある。というのは、人があまり長く見はっていると、たぶん眠ってしまうだろう。一方において、あまり長すぎる影にだまされてその時期ならぬうちに発砲するとか、あるいはまた、あまり早くに相手に向かって攻めかかりすぎて、危険に、向かって進んでこいと教えるというようなことは、また別の極端である。機会の熟、不熟は常に十分計量してみなければならない。そして一般には、あらゆる大きな行動の始まりは、百の目をもつアルゴス*に、終わりは百の手をもつブリアレウスにまかせるのがよい。まず注意をして、それから急ぐということにするのである。というのはプルトン*のかぶとは、政治家が人の目に見えず歩けるようにするものだが、会議の場合の秘密性と、実行の場合の敏速性をあらわしている。というのはものごとが一度実行にかかると、敏速に比較しうる秘密性はない。弾丸の空中における動きのようなものである。それはあまり早く飛ぶから目にとまらないのである。」

アルゴス* ギリシャ神話の怪物で、百の目をもつ。
プルトン* ギリシャ神話の冥界の王。かぶると姿が見えなくなる
かぶとをもっていた。

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兵は拙速を聞くも、未だ巧遅を観ざるなり(孫子)。
posted by Fukutake at 12:16| 日記

タイタニック号の日本人

「明治不可思議堂」 横田順彌 ちくま文庫 1998年

 たった一人の日本人 p241〜
 「明治四十五(一九一二)年四月十四日、イギリスのサウサンプトン港から、アメリカのニューヨークに向かって処女航海中の四万六千三百二十八トンの超豪華客船が、北大西洋で巨大氷山に衝突、沈没。乗員、乗客二千二百余人のうち千五百余人が死亡し、救助された者、わずかに七百余人という事件があった。いうまでもあるまい、タイタニック号遭難事件だ。
 この事件は、たちまち世界中の話題をさらったが、当時の日本の新聞も、『四万五千噸の巨船チタニック号 氷山と衝突沈没』の見出しで報道した。
 当初、まだ正確な情報が入っていなかったとみえて、船客は全員無事のように報道されたが、二千余人の乗員・乗客に対して、救命ボートは千百七十八人分、十六隻しか用意されていなかった。しかも衝突事故が起こった時間が深夜の午後十一時四十五分であったため、乗員・乗客の避難が遅れ、大惨事を引き起こす結果となった。
 ところで、このタイタニック号には、たったひとりだけ日本人が乗っていた。二等先客の鉄道院在外研究員としての仕事を終え、帰国途中の鉄道院副参事・細野正文(四十一歳)だった。細野は運よくボートに乗り込むことができ、一命を取り留めた。…
 けれど細野は日本に帰ってくると、批難を浴びることになった。こういう事故が起こった時、まず助けるべきは女性、子供であり男は最後でなければならない。だのに細野は男のくせに、おめおめと生きて帰ってきたというのだ。武士道を重んじる日本人が、まだたくさん生きていた時代だ。この批判があるのも、うなずけなくはない。しかし大正時代の女学校の修身の教科書まで、細野は恥さらしだと書かれていたというから、ちょっと、ひどすぎる気もする。

 だが、これは事実ではなかった。細野は生前、この事件についてはあまり語ろうとはしなかったが、明治四十五年七月号『タイタニック号沈没遭難実話』として、本人の貴重な言がある。その一節に「私は、此時已に決心して居た。ボートは右舷に八隻左舷に八隻しかなかった。悉く卸した処で僅かに千人足らずの人しか救われないのだから、所詮助かるまいと決心を付けて静かに右舷を歩いて居た。兎に角自分は日本人である又日本人としては自分一人である。決して卑怯な見苦しい態をして東洋人殊に日本人の恥を晒してはなるまいと心に期した。」そして書き置きをからだに結びつけて船室に戻ろうとしたところ、一隻のボートにひとりぶんの場所があったので、これに飛び乗ったのだ。細野の次男は、父の汚名を雪ぐことに努力した。そして後日、細野が克明に事件の経過を書きとめたタイタニック号備え付けの便箋を発見したのだ。」

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人に歴史あり。
posted by Fukutake at 12:14| 日記

2020年12月21日

禍々しい復讐劇

「大東亜戦争は日本が勝った」
 −世界史の中の日本− 英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る。
 ヘンリー・S・ストークス 著 藤田裕行 訳・構成 ハート出版 2017年

日本の満州への進出は侵略ではない p212〜
 「東京裁判それ自体が裁判などとお世辞にも言えない復讐劇であったことは、もはや何人も否定のしようがない。
 しかし、東京裁判を否定しただけでは日本の名誉を回復されることはない。「東京裁判は確かに不当なものだったが、日本が中国に侵略し、南京大虐殺などの行為をした歴史の事実を覆すことはできない」と批判されるからだ。実際にはどうであったのか。そのことを、日本は世界に訴えてゆかなければならない。大きな争点の一つは満洲事変、支那事変が、はたして日本の侵略戦争であったかどうかという点である。
 そのことを理解するには、米軍の日本駐留を考えてみるとわかり易い。当たり前だが、現在の米軍の日本駐留は侵略では全くない。条約に基づいて他国の軍隊が駐留しているだけのことだ。満洲も同じことだ。条約に基づいて日本軍が駐留していたにすぎない。
 満洲の地図を見ると、満洲が朝鮮の北に位置していることがわかる、ちょうど万里の長城がずっと東に延びた東端のあたりから北にある。万里の頂上の外側に位置しているということは、そこは中国(支那)ではない支那の敵である異民族が住んでいる野蛮な辺境だと歴史的に位置づけられてきたのだ。
 ちなみに中国のことは、英語でチャイナという。フランス語ではChine、ドイツ語・スペイン語ではChina、イタリア語ではCinaとなる。いずれも「支那」のことである。
 一八九九年「義和団の乱」(北清事変)が勃発し、翌年には北京まで波及した。ロシアは日本を含む諸外国と共に支那に兵を送り込んだ。そして「乱」が満洲にまで及ぶと、さらに全満洲を占領してしまった。日露戦争が間近な時期には、清朝の官吏が満洲に入るのにロシアの役人の許可が必要だった。当時満洲はロシア領だったのだ。
 ところが日本が日露戦争に勝利し、アメリカ東部の港湾都市ポーツマスで講和協約を締結した。この条約で、日本は満洲に関する権益を獲得したのだ。満洲は公明正大に日本の権益であった。そしてその後、その満洲に有する日本の権益に、まるで自国の領土であるかのように、支那が口を挟んでくる事態となった。」

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全て国際条約に基づいて日本は行動した。盗人猛々しい中国。
posted by Fukutake at 08:12| 日記