2020年12月29日

神隠し

「山の人生」柳田國男 (柳田國男コレクション)
  角川ソフィア文庫 2013年

「神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと」p38〜
 「変態心理の中村古峡君なども、かつて奥州七戸辺の実例について、調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまって、そういう心配は完全になくなった。
 私の村は県道に沿うた町並みで、山も近くにあるほんの丘陵であったが、西に川筋が通って奥在所は深く、やはりグヒンサン*の話の多い地方であった。私は耳が早くて怖い噂を沢山に記憶している児童であった。七つの歳であったが、筋向いの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足先にその家の戸口を出ると、不意に頰冠りした屈強な男が、横合いから出て来て私を引っ抱え、とっとと走る。怖ろしさの行き止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門まで来ると、くぐり戸の脇に私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯で、後にはおおよそ心当たりも付いたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終わった。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺激のために、すっかり変わっていたからであろうと想像する。
 それからまた三、四年の後、母と弟二人と茸狩りに行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向こうの谷の暗い淋しい池があって、しばらくその岸へ下りて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登った方の山の口へ来たと思ったら、どんな風にあるいたものか、また同じ淋しい池の岸へ戻って来てしまったのである。その時も茫としたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持ちになった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。」
グヒンサン*:(大)天狗、人を化かす者。
----
少年期に、多少なりともそういうことに逢った経験があったような。
posted by Fukutake at 08:17| 日記

2020年12月28日

一体何をしているのか

「戦国策」 近藤光男  講談社学術文庫 2005年

賢后 p38〜
 「斉王は使者を出して趙の威后に機嫌をうかがわせた。手紙の封を切らないままで、威后は使者に問われた。「作物も順調ですか。人民にも変わりはありませんか。王様にもお変わりはありませんか」。使者は不愉快に思って、「臣はお使いを仰せつかって威后さまのもとへ参りました。ところがいま、王のことをお尋ねにならず、まず作物と人民のことをお尋ねです。どうして卑しいものを先にして尊いものをあとになさるのですか」と言った。威后は言った。「そうではない。もしも作物が実らなかったら、どうして人民があろう。もしも人民がなかったら、どうして君があろう。ですから、本を捨て置いて末を問うことなどしましょうか」と。
 ここで進み出させたうえ、さらに尋ねた。「お国の在野の士で、鐘離子という者、元気にしていますか。あの人、その人柄はと言えば、食べ物のある者にも食べさせ、食べ物のない者にも食べさせる。着る物のある者にも衣服を与え、着る物のない者にも衣服を与えます。これは、王を助けて王の民を養っていることになります。それなのに、どうして今日までなんの官職も頂かないのでしょう。
 葉陽子は元気ですか。あの人、その人柄は、連れ合いを失った者に哀れみを掛け、みなしごや独り者の老人に恵み、貧乏にあえぐ者を救い、手もと不如意の者には補ってやります。これは、王を助けて王の民に安息を与えていることになります。それなのに、どうして今日までなんの官職を頂かないのでしょう。
 北宮の娘の嬰児子は、元気にしたいますか。佩の環も耳飾りも外してしまい、年寄るまで嫁に行かずに父母に孝養を尽くしています。これはまったく、民にお手本を示して孝の心を植えつけていることになります。それなのに、どうして今日まで朝廷にお呼びがないのでしょう。あの二人の士を仕官させず、この一人の娘をお召しにならぬようでは、何によって斉国に王となり万民を慈しみなさるのですか。於陵の子仲は、なお存命でしょうか。この人、その人となりはとえ言えば、上は王に臣として仕えようとせず、下は自分の家をほったらかしにし、中は諸侯に交わりを得ようともしません。これは、無用な人物となるお見本を民に示しているものなのです。どうして今日まで殺さずに置かれるのですか」。」
(一四六、斉下王建4)

-----
What is your King up to?
posted by Fukutake at 08:44| 日記

質問魔

「日本人の質問」 ドナルト・キーン 著 朝日選書 1983年

なんたる好奇心 p5〜
 「日本人は好奇心の旺盛な国民として世界中に知られている。これは決して新しい現象ではない。西洋人と初めて接触したころから、機会があれば必ず外国のことについてむやみに質問した。文化八年(一八一一)にロシア海軍少佐ゴロウニンらがエトロフで日本人に捕らえられ、投獄されたことがあるが、日本の役人は獄中のロシア人たちを間断なく尋問した。日本側はまた、彼らを利用してロシア語を始める考えもあったようだが、ゴロウニンは「われわれは死んでも日本人相手の教師になるつもりはなかった」と後日、回想録の中で記した。明らかに日本人の質問攻めに弱っていた。
 五十年経てから下田にアメリカの領事館ができた。江戸幕府の隔離政策により、ハリス領事と彼のオランダ語の通訳のヒュースケンはそこで孤独の生活を強いられていたので、あるいは日本人の質問攻めを喜んだかも知れない。ある日、ヒュースケンが近くの武士の家を訪ねたところ、会話の途中で、その武士が目、鼻、口を指してオランダ語の名称をいちいち聞き、さらに突然素っ裸になって体のあらゆるところを指して名称を尋ねたので、ヒュースケンは大いに当惑させられた。
 日本人の排他的な面が時々指摘され、それについての不満を口にする外国人は後を絶たない。だが、日本人が文字通り国粋主義者なら、自国をよく知れば十分なので、他国の知識を蓄積してもためにならないと思うはずである。が、鎖国時代のかなり狂信的な国学者であった平田篤胤でさえ、「純正な日本の道を得ようと望む者は、すべての学問を身につけなければならないことは明らかである。それらの学問が外国のものであっても、それらの長所を選び、学びとるならば、御国の用となるだろう。漢学はもちろん、インドやオランダの学問さえも、御国学びと呼んでいっこうに差し支えないのである」と強調した。
 日本人の知識欲は世界に類のないものである。日本の目覚ましい発達は、その知識欲と縁が深い。質問のお相手にさせられる外国人は、そのために疲れることがある。ゴロウニンではないが、「死んでも日本人相手の教師になりたくない」という不平を漏らしてしまうが外国人も出てくる。」

------
物見高い日本人気質
posted by Fukutake at 08:41| 日記