「ココロとカラダを超えて −エロス・心・死・神秘− 」
頼藤和寛 ちくま文庫 1999年
p94〜
「そもそもわれわれは子供の頃から、一たす一は二とか、ブタは不潔だとか、殺人は大罪だとか、必ずしも根拠十分とはいえずともそう思い込むことで社会に同化しやすく、仲間入りさせてもらいやすい思惟内容・情操内容などの情報をどっさりつめこまれた強固な条件づけの重層化を経て成人するのです。また深部に蠢く情動も、表層に沈着した文化学習内容から選ばれたレッテルを貼った上で自覚されますから、幽玄からのメッセージを読みそこない、全てが世間並の体験へと翻訳されていきます。いずれにせよ、「私」の経験できる自分自身というのは、「私」につめこまれた社会通念や文化の枠組みに濾過されたあとの自分自身なのです。いきおい、それに反する非合理な物騒な心的内容は、仮にあるとしても「私」領域外へ排除されることになります。
このように一旦、日常の「私」の領域から排除され不可触領域にほうり込まれた心的内容は、ふつう無意識とか潜在意識とか呼びならわされています。その非日常的な世界は我々の好奇心をいたく刺激しますが、さりとて自分のそれにはあまりお目にかかりたくないものです。なぜならもし安直にお目にかかれる程度のものなら(我々がそれに直面できるほどの強さや図太さをもっているなら)、別に領域外に追放するには及ばなかったはずですからね。
幸か不幸か、一部の人ではこれが勝手に噴き出して表面化することがあります。本人はたまったものではない。たちまち彼の「私」体制は崩壊の危機にみまわれます。社会は、それを忌んで「精神病」と名づけるのですが、でも厭わずに彼らを観察いたしますと、一体、何が平常人の「私」領域から除外されていたのかがハッキリすることが多いのであります。たとえば、ふだん控え目だった人がスゴイことを口走り、幼児的になったり支離滅裂になったり、時にはそうした症状学が追いつかぬ混沌そのものに化したりします。
それらは決して非人間的な現象ではありません。むしろ言葉の真の意味で全人的あり方なのであって、逆にマトモな連中の方が社会で通用する部分だけをかきあつめた偏向的人間であると申せましょう。
こうした症例にたくさん当たって思うのは、自分たちとは別人種だとか、単なる脳の故障だとかで済ませては勿体ないので、実に我が身をふりかえり、さてはかかるワケのわからぬ材料が自分にも潜んでいるにちがいない、と勉強させていただくのがよいのです。
こうした謙虚さは、たまたま物質文明・科学至上主義の世の中だから我々から除外されただけの超常現象やら超能力やらをまだお持ちらしい人々に対しても適用されねばなりません。ははあ、さては自分にもそうした力がかくされているのかもしれないな、と感心すればいいわけです。」
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「こころ」という神秘
鬼から逃げる
「鬼むかし 昔話の世界」 五来 重 角川選書 1991年
鬼からの逃走 p127〜
「柳田國男翁も『日本昔話名彙』の「厄難克服」の中に「鬼の子小綱」を分類して、説明の最後に「そこで鬼の子は杓子で滑稽なまねをしてみせたので鬼は笑い出して、その拍子に海水をはき出し、無事に船は沖に出て家に還る事が出来た」とする。せっかく、ほとんどの「鬼の小綱」に、歴代の民衆がヘラまたは杓子を語りのこしてくれたのに、その意味をかんがえみようともしなかった。またこの昔話には杓子という語りと箆という語りがあることも注意しなければならないが、杓子はヘラという方言があるというだけでは、十分な説明とは言えないであろう。私はこの双方ともに庶民の過去の具体的な生活の跡があらわれていると思う。
ヘラについては、尾籠な話であるが、人間と産まれたら一生涯一日一回は厄介にならなければならぬ、トイレットペーパー前史がかくれている、と私はかんがえる。インテリならば、禅問答の「無位の真人乾屎橛(しんじんかんしけつ)(糞掻箆)」を想いおこすかもしれないが、民俗採訪ではときどき、昔の便所(厠)には竹篦が置いてあった話を聞く。もう一つのトイレットペーパー前史は、戸外の厠から家の戸口まで縄を一本張ってあった話で、これをまたいで尻にはさんだまま戸口まで歩いてくる間に綺麗になっている、という。鬼でなくとも笑いそうな話なので、冗談でしょうと言うと、いやたしかにあった話だという。切藁を便所に置いてあった話と、蕗の葉などを置いてあった話は、たしかに使ったということを、私は越中の山村で聞いたことがある。しかし竹篦となると、禅寺ではともかく、村人の寄合の馬鹿話の席でも、皆が笑い出す段階で、「鬼の子小綱」の箆は語られたのであろう。そうでなければ尻をまくって箆で叩く、という発想は出ないなずである。
もう一つの杓子のというのは、杓子が魔除けになるという庶民信仰から、鬼を追い払う咒具として語られたもので、いくら良い音が出るからといって、女の尻を叩かなくてもよかったのであるが、先行していた箆に引かれて、叩く趣向になったものとおもう。杓子はよく主婦権の象徴といわれて、世帯を長男の嫁に譲るのを「ヘラ渡し」というから、女性に縁が深いので、箆は杓子に転訛しやすかったのであろう。柳田國男翁は『石神問答』で、御左口(みさくち)神あるいはオシャモジ様は、サイの神とおなじでダイノコンゴウは粥杖であらわされ、女性の尻を打つ咒具だ、といっている。これもシャモジで尻を打つモチーフの基になるかもしれない。」
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けつをまくって肛門付近をヘラで叩いたのだろう。そうでもしないと鬼は笑わないだろう。
鬼からの逃走 p127〜
「柳田國男翁も『日本昔話名彙』の「厄難克服」の中に「鬼の子小綱」を分類して、説明の最後に「そこで鬼の子は杓子で滑稽なまねをしてみせたので鬼は笑い出して、その拍子に海水をはき出し、無事に船は沖に出て家に還る事が出来た」とする。せっかく、ほとんどの「鬼の小綱」に、歴代の民衆がヘラまたは杓子を語りのこしてくれたのに、その意味をかんがえみようともしなかった。またこの昔話には杓子という語りと箆という語りがあることも注意しなければならないが、杓子はヘラという方言があるというだけでは、十分な説明とは言えないであろう。私はこの双方ともに庶民の過去の具体的な生活の跡があらわれていると思う。
ヘラについては、尾籠な話であるが、人間と産まれたら一生涯一日一回は厄介にならなければならぬ、トイレットペーパー前史がかくれている、と私はかんがえる。インテリならば、禅問答の「無位の真人乾屎橛(しんじんかんしけつ)(糞掻箆)」を想いおこすかもしれないが、民俗採訪ではときどき、昔の便所(厠)には竹篦が置いてあった話を聞く。もう一つのトイレットペーパー前史は、戸外の厠から家の戸口まで縄を一本張ってあった話で、これをまたいで尻にはさんだまま戸口まで歩いてくる間に綺麗になっている、という。鬼でなくとも笑いそうな話なので、冗談でしょうと言うと、いやたしかにあった話だという。切藁を便所に置いてあった話と、蕗の葉などを置いてあった話は、たしかに使ったということを、私は越中の山村で聞いたことがある。しかし竹篦となると、禅寺ではともかく、村人の寄合の馬鹿話の席でも、皆が笑い出す段階で、「鬼の子小綱」の箆は語られたのであろう。そうでなければ尻をまくって箆で叩く、という発想は出ないなずである。
もう一つの杓子のというのは、杓子が魔除けになるという庶民信仰から、鬼を追い払う咒具として語られたもので、いくら良い音が出るからといって、女の尻を叩かなくてもよかったのであるが、先行していた箆に引かれて、叩く趣向になったものとおもう。杓子はよく主婦権の象徴といわれて、世帯を長男の嫁に譲るのを「ヘラ渡し」というから、女性に縁が深いので、箆は杓子に転訛しやすかったのであろう。柳田國男翁は『石神問答』で、御左口(みさくち)神あるいはオシャモジ様は、サイの神とおなじでダイノコンゴウは粥杖であらわされ、女性の尻を打つ咒具だ、といっている。これもシャモジで尻を打つモチーフの基になるかもしれない。」
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けつをまくって肛門付近をヘラで叩いたのだろう。そうでもしないと鬼は笑わないだろう。
posted by Fukutake at 08:37| 日記