2020年10月21日

ニュースの世界、普通の世間

「霊長類ヒト科動物図鑑」 向田邦子 文春文庫 1984年

紐育・雨 p142〜
 「ハーレム・サウス・ブロンクスを車で通った。黒人の多い、治安の極めて悪いところなので、車から降りないようにと注意されているところである。…
 そのあとコロンバス通りで買物をした品のいいしゃれた店がならんでいる。私はスカートを一枚買った。どこにでもある眺めだなあとおもてに出ると、雨は上がっていた。そこでつい二時間前に大統領が撃たれたというニュースを知った。

 何かことがあると、街中が衝撃を受けているとか悲しみに包まれております、という形容を聞くが、私の見た限りでは全くそんなことはなかった。
 生命に別状がなさそうだというせいもあったろうが、少なくとも街も人も普通に見えた。
 私たちは、カーラジオをつけず場所移動をしていたので知らなかったが私の見たなかで、かなりの人はニュースを知っていた筈である。
 にもかかわらず、黒人たちは格別興奮した様子もなくムッとした顔で立っていたし、若い男女は手をにぎりふざけ合い、主婦たちは真剣な目でハムの厚さをにらんでいた。
 ホテルへ帰ったら、テレビの画面のキャスターたちはさすがにたかぶった声で現場の様子を伝えていたが、夜更けにいったイタリア料理店では、満員の客が旺盛な食欲をみせていた。レーガンとかヒンクリー・ジュニアという単語は聞こえてこなかった。
 次の朝、六時半にホテルの十七階の窓から下をのぞいた。パーク通り三十八丁目を、二頭の大型犬を引っぱった老人が歩いてゆく。昨日の朝と同じ色のセーターを着ている。それにしても同じ眺めである。
 私の父が死んだ次の朝、いつもと同じように朝刊がきたとき、びっくりした覚えがある。何様でもあるまいし、市井の名も無い人間が死んだところで、世の中、何も変わりはしないのだ。
 一国の大統領が撃たれても、人は同じように食べ、同じように眠り、同じように犬を散歩に連れてゆく。
 七時半に、近くのグランド・セントラル駅へタイムスを買いにいった。読めはしないのだが、なんとなく買いたくなった。いつもより沢山部数を刷ったのだろう、新聞が山のように積み上げられていた。しかし、「飛ぶよう」に売れてはいなかった。」

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世間の日常と個人の非日常。
posted by Fukutake at 10:34| 日記

終わりのない終わり

「人生の必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」 ロバート・フルガム
  池央 耿 訳 河出文庫 1996年 

終わりのない終わり p269〜
 「本の終わり方でわたしが好きなのは終わりがないことである。ジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は文章の途中で、句読点もなく、何の説明もないままぷっつんと終わっている。一部には、この尻切れの文章は冒頭の未完の文章と繋がって作品全体が輪廻をなすことを暗示しているのだと言う学者もある。これはいい。わたしはこういうのが大好きだ。もっともジョイスはこれについて何も言っていない。どう解釈するかは読む者の自由である。
 これとはくらべものにはならないかもしれないが、わたしは一番上の息子がまだ幼い子供だった頃、いつも寝るときに枕元で話を聞かせてやったことを思い出す。話しだしてまだいくらも経たないうちに、子供は決まってその前はどうだったのかと尋ねたものだ。そして、そんなふうに子供の相手をした経験があればおわかりの通り、話がどんなにめでたしめでたしで寓意が明らかに終わっても、暗がりから睡気にかすれた声が聞こえてくる。「それからどうしたの、パパ?」
 この本のはじめにわたしは、そもそものきっかけになった出版エージェントからの問い合わせのことをお話しした。ほかににも何か書いたものはないか、という質問だった。ないことはない。とわたしは答えた。ずっと後になってわたしはまた訊かれた。今度は、もっとほかに書いたものはないか、という問い合わせである。前と同じで、ないことはない、とわたしは答えた。いくらでもある。生きている限り、書く材料には事欠かない。
 とはいうものの、やはりここでひとまずおしまいにしよう。人間存在という布に縫い目はなくとも、織り手は夜になれば帰って寝なくてはならない。
 この次は、鮭の話をしようと思う。ほかにもいろいろある。ミス・エミリー・フィップスのこと。アイダホ州ポカテロの雑貨屋の看板のこと。さんざんな結婚式のこと。アスベストス・ゲロス(堪えきれぬ笑い)というギリシャ語のこと。救世海軍のこと。今知っていることを前から知っていた男のこと。世界最小のサーカスのこと。ハイスクールに実態について、寝ようとしたらベッドが火事だった時のこと。それから」

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posted by Fukutake at 10:32| 日記