「周防大島昔話集」 宮本常一 河出文庫 2012年
p29〜
「所は九州の長崎。その長崎一番のお金持の反物屋があった。この家にこの度立派な嫁をもらった。その家に一人の小僧が訪ねて来て、自分を使ってくれんかという。旦那は快く雇ってくれて、その日から小僧はこの家に奉公する事になった。そのうち次第なれてきたので、使いに出すようになった。ところが何べん使いに行かしても、いつも帰りがおそい。ある日旦那は小僧に「お前は使いに行くたんびに帰って来るのがおそいが、一体どういうわけか」ときくと。小僧は一向に返事をしない。その後も使いに行くたんびに帰りがおそい。小僧は毎日町はずれの森の中にある観音様へ参って一生懸命に拝んでいたのである。ある日の事、一生懸命に拝んでいると、観音様があらわれて、一つきれいな玉を授けてくれた。そうして此の玉で見れば何でも分かると教えてくれた。これをもらった小僧は大喜びで家に帰った。家に帰ると直ぐ、旦那の前に出て、今までの事を残らず申した。
その頃から若い嫁の世帯持ちが余り面白くなかった。旦那はこれを気に懸けている折から、ちょうど小僧がよい物をもらって来たというので、直ぐさま小僧にみてもらった。ところが若い嫁が鶏に見えた。これでは世帯持ちが悪いはず、鶏というやつは“けり出す”なんとか文句をつけて若い嫁を帰さにゃならないと色々考えたあげく。若い嫁をよんで「お前はうちに来てくれて、今日迄よく働いてくれたが、お前はどうも俺の家の家風にあわん。お前も家にいてはどういう災難がこれから先、回って来るかもしれん」といってとうとう若い嫁を帰してしまった。
これから後小僧の玉は大変なもんだというので、若い旦那の相を見たところが牛に見えた。次に古い旦那の見たところがえびす様に見えた。
ある日店へ色の黒い、みっともない女が反物を買いに来た。これを見た古い旦那は直ぐ小僧をよんで、「小僧小僧、何でも、この女を一つ見てくれ」と頼んだ。そこでふすまのかげから玉で見たところが、この女は弁天様であった。これを知って大旦那は大喜びで、早速店に出てきて、「もしもし一寸あんたにお尋ねするが、あんたは家の息子の嫁に来てもらわりやせんか」ときいた。女はカラカラ笑って、「旦那冗談をいいなさんな、私の様なものが、なんであんたの家の様な立派な家へ嫁やなんぞに来られますか」と冗談をいわれるものと思いすましていた。ところが古い旦那が頭を下げて頼むものであるから、女もとうとうこれは本物になったと「それでは私はこの先の島の者ですが、家にお母さんが一人あるから、帰ってお母さんに相談して、お母さんが行ってもよいといったらお嫁に来ます」といって帰って行った。
其の後とうとうこの女が嫁に来て、この反物屋は栄えたということである。」
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玉の輿
似非科学者
「」ファインマンさん ベスト・エッセイ」 リチャード・P・ファインマン
大貫晶子・江沢洋 訳 岩波書店 2001年
科学ではない科学… p32〜
「科学が成功したせいで、一種の擬似科学といったものが生まれたと僕は思うね。その科学でない科学の一例が社会科学だ。なぜかというとあれは形式に従うだけで、科学的な方法に従っていないからだよ。データを集めてみたり、もっともらしくあれやこれややってはいても、別に法則を見つける訳でもないし、何も発見してない。まあ将来何かに到達するかもしれないが、いまのところは低迷中で、まだよく発達してないんだ。しかもこれがもっと世俗的なレベルの話でね。世の中には何につけ、いかにも一種の科学専門家みたいに聞こえる「エキスパート」どもがそろってる。だが、科学的どころか、やっていることといったらタイプライターの前に腰を据えて、ええとそれ、有機肥料を使って育てた作物のほうがそうでない肥料で育てた作物より身体によい、とか何とかいうゴタクをでっちあげる。そりゃほんとうかも知れないし、ほんとうでないかも知れないが、どちらにせよ証明なんかぜんぜんなしだ。ところが彼らはとにかくタイプライターの前に座って、科学者気取りででっち上げに余念なく、いつもまにか食物とか自然食品とかの専門家とやらにのしあがってしまう。そのあたりじゅう、ありとあらゆる神話や疑似科学があふれてるよ。
もっとも僕の考えがぜんぜん誤りで、あの連中もほんとうに何か知っているのかもしれないが、僕にはどうもそうは思えない。なぜかというとね、僕は何かを知るということがどんなに大変なことか、実験を確認するときにはどれほど念を入れなくてはならないか、まちがいをしでかしたり、自分をうっかりだましてしまったりすることがどんなにたやすいかを、肝に銘じているからなんだ。何かを知るということはどういうことなのか、僕は知っている。だが連中の情報の集めかたを見ていると、なすべき研究もせず、必要な確認もせず、決して欠かせぬ細心の注意も払ってないじゃないか。だから彼らがほんとうに知っているとは信じられないんだ。彼らの知識は本物ではなく、やっていることもまちがっているのに、偉ぶって人を威圧しているんだと思えてしかたがない。僕は世間のことにはうといが、とにかくこう考えるね。」
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ごもっとも。
大貫晶子・江沢洋 訳 岩波書店 2001年
科学ではない科学… p32〜
「科学が成功したせいで、一種の擬似科学といったものが生まれたと僕は思うね。その科学でない科学の一例が社会科学だ。なぜかというとあれは形式に従うだけで、科学的な方法に従っていないからだよ。データを集めてみたり、もっともらしくあれやこれややってはいても、別に法則を見つける訳でもないし、何も発見してない。まあ将来何かに到達するかもしれないが、いまのところは低迷中で、まだよく発達してないんだ。しかもこれがもっと世俗的なレベルの話でね。世の中には何につけ、いかにも一種の科学専門家みたいに聞こえる「エキスパート」どもがそろってる。だが、科学的どころか、やっていることといったらタイプライターの前に腰を据えて、ええとそれ、有機肥料を使って育てた作物のほうがそうでない肥料で育てた作物より身体によい、とか何とかいうゴタクをでっちあげる。そりゃほんとうかも知れないし、ほんとうでないかも知れないが、どちらにせよ証明なんかぜんぜんなしだ。ところが彼らはとにかくタイプライターの前に座って、科学者気取りででっち上げに余念なく、いつもまにか食物とか自然食品とかの専門家とやらにのしあがってしまう。そのあたりじゅう、ありとあらゆる神話や疑似科学があふれてるよ。
もっとも僕の考えがぜんぜん誤りで、あの連中もほんとうに何か知っているのかもしれないが、僕にはどうもそうは思えない。なぜかというとね、僕は何かを知るということがどんなに大変なことか、実験を確認するときにはどれほど念を入れなくてはならないか、まちがいをしでかしたり、自分をうっかりだましてしまったりすることがどんなにたやすいかを、肝に銘じているからなんだ。何かを知るということはどういうことなのか、僕は知っている。だが連中の情報の集めかたを見ていると、なすべき研究もせず、必要な確認もせず、決して欠かせぬ細心の注意も払ってないじゃないか。だから彼らがほんとうに知っているとは信じられないんだ。彼らの知識は本物ではなく、やっていることもまちがっているのに、偉ぶって人を威圧しているんだと思えてしかたがない。僕は世間のことにはうといが、とにかくこう考えるね。」
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ごもっとも。
posted by Fukutake at 08:41| 日記