「徒然草 第五十六段」
「長らく離れていて出会った人が、自分の方にあったことを、何もかも余すところなく語り続けるのは、ほんとにイヤミなものである。いくら隔てなく慣れ親しんだ人でも、しばらくたってから逢えば、気づまりの感じられぬわけがあるまい。第二流の人間は、ついちょっと外出しても、今日手に入れたホットニュースだといって、息をつぐ間もないほどにしゃべり立てるものである。上品な人が物語りをする時は、聞き手が大ぜいいる場合にも、その中の一人に向かって言うのを、自然と他の人たちも聞くというふうなのだ。下品な人間は、誰にともなく大ぜいの中にのさばり出て、まるで今見ていることのように尾鰭をつけて話すと、聞き手は一様にゲラゲラと笑いさわぐ、そのサマは乱雑をきわめる。面白いことをしゃべってもあまり面白がらないのと、面白くもないことをしゃべってもよく笑うことによって、人柄の程度が推測できるにちがいあるまい。
人の容姿のよしあしとか、学問のある人はその方面のことに関して批評し合っている時に、自分の身を引き合いに出して、あれこれと言い出してきたのは、ほんとうにいやな気のするものである。」
(『イラスト古典全訳』橋本武 p69〜)
(原文)
「久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あららさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひののしる、いとらうがわし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。
人の身ざまのよし・あし、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。」
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人前での話し方で品がわかる。
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耶律楚材とモンゴル
「耶律楚材とその時代」杉山正明 著 白帝社 1996年
モンゴルへの賭 p254〜
「一貫して、銃後にありつづけた楚材が、チンギスの西征、現代風にいいなおせば、中央アジア・イラン・アフガニスタン・パキスタン作戦終了後、ただちに実施された西夏討滅作戦の余燼を見聞しながら、ゆっくりと、華北へ帰還してきたとき、金朝は、完全に、黄河の南だけに、逼塞を余儀なくされるまでに、追いつめられていた。
時は移り、人は変わり、モンゴル側の陣容も大きく様変わりしようとしていた。楚材は、まことに、幸せであった、というよりほかない。
さらにここで、ひるがえって、気になることのもう一点は、けっきょく、楚材は、なぜ、モンゴルに仕えたか、という点である。もっとも肝心な点である。
これは、率直にいって、きっちりと正確には把握しがたい。しかし、ひとつには、不満であったろう。
中都赴任を命ぜられた時点で、楚材は、自分が、ときの金朝政府から、期待されている人間ではないことを思い知った。捨てられた、と思った時、別の生き方が見えてきたのかもしれない。もし、そうであるならば、金朝に見捨てられた楚材が、金朝を見捨てたことになる。
もうひとつは、もちろん、野望に相違ない。
楚材は、金朝を。もはや将来がないと見限った。モンゴルに投ずることが、成功をもたらすかどうかはわからないが、金朝の一官僚として生きるよりは、ましにおもえた。
そして、中都開城後、参禅だ、なんだと、日を送って情勢ながめをするうちに、モンゴルは、毛並みのよいキタン貴族である自分を、高く買ってくれそうなことがわかった。かたや、黄河の南の金朝では、キタン族が、ほとんど離反したために、キタンの血をひくだけで生きにくい状況となっていた。
そのころ、耶律楚材は、まだ二十代のなかばでしかなかった。しかも、異様なほど、プライドの高い男であった。いまさら、黄河の南に逃げ込んだ金朝のもとへ戻るのも、莫迦らしくおもったとしても不思議ではない。
楚材は、なお、海のものとも山のものともつかないけれど、逆に、それだけに自分にとっては、浮上のチャンスも多いだろうモンゴルに、身を投じるほうを選んだ。ようするに、モンゴルに賭けた。
その賭けには、モンゴルならば、自分の血筋・家柄・教養が、十分に尊重されるはずだという計算が潜んでいたことは、疑いない。打算の賭けであった。
しかし、このときの楚材の決断を、非難できるほど、じつは、われわれも純粋無垢ではないだろう。
人は、みな、平凡な存在である。平凡な存在であるからこそ、さまざまな夢と打算のなかに、たゆといながら、日々のくりかえしのなかで、ひとりよがりな夢をおもいえがく。また、それがかなわねば悲嘆にくれ、ときには歎くどころか、のろうことさえしつつ、死のときまで、うたかたの人生を送りゆくものなのだろうから。」
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最後は筆者の諦観か。
モンゴルへの賭 p254〜
「一貫して、銃後にありつづけた楚材が、チンギスの西征、現代風にいいなおせば、中央アジア・イラン・アフガニスタン・パキスタン作戦終了後、ただちに実施された西夏討滅作戦の余燼を見聞しながら、ゆっくりと、華北へ帰還してきたとき、金朝は、完全に、黄河の南だけに、逼塞を余儀なくされるまでに、追いつめられていた。
時は移り、人は変わり、モンゴル側の陣容も大きく様変わりしようとしていた。楚材は、まことに、幸せであった、というよりほかない。
さらにここで、ひるがえって、気になることのもう一点は、けっきょく、楚材は、なぜ、モンゴルに仕えたか、という点である。もっとも肝心な点である。
これは、率直にいって、きっちりと正確には把握しがたい。しかし、ひとつには、不満であったろう。
中都赴任を命ぜられた時点で、楚材は、自分が、ときの金朝政府から、期待されている人間ではないことを思い知った。捨てられた、と思った時、別の生き方が見えてきたのかもしれない。もし、そうであるならば、金朝に見捨てられた楚材が、金朝を見捨てたことになる。
もうひとつは、もちろん、野望に相違ない。
楚材は、金朝を。もはや将来がないと見限った。モンゴルに投ずることが、成功をもたらすかどうかはわからないが、金朝の一官僚として生きるよりは、ましにおもえた。
そして、中都開城後、参禅だ、なんだと、日を送って情勢ながめをするうちに、モンゴルは、毛並みのよいキタン貴族である自分を、高く買ってくれそうなことがわかった。かたや、黄河の南の金朝では、キタン族が、ほとんど離反したために、キタンの血をひくだけで生きにくい状況となっていた。
そのころ、耶律楚材は、まだ二十代のなかばでしかなかった。しかも、異様なほど、プライドの高い男であった。いまさら、黄河の南に逃げ込んだ金朝のもとへ戻るのも、莫迦らしくおもったとしても不思議ではない。
楚材は、なお、海のものとも山のものともつかないけれど、逆に、それだけに自分にとっては、浮上のチャンスも多いだろうモンゴルに、身を投じるほうを選んだ。ようするに、モンゴルに賭けた。
その賭けには、モンゴルならば、自分の血筋・家柄・教養が、十分に尊重されるはずだという計算が潜んでいたことは、疑いない。打算の賭けであった。
しかし、このときの楚材の決断を、非難できるほど、じつは、われわれも純粋無垢ではないだろう。
人は、みな、平凡な存在である。平凡な存在であるからこそ、さまざまな夢と打算のなかに、たゆといながら、日々のくりかえしのなかで、ひとりよがりな夢をおもいえがく。また、それがかなわねば悲嘆にくれ、ときには歎くどころか、のろうことさえしつつ、死のときまで、うたかたの人生を送りゆくものなのだろうから。」
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最後は筆者の諦観か。
posted by Fukutake at 08:33| 日記