2020年10月16日

地震がくるぞー

「銀座アルプス」 寺田寅彦 角川文庫 2020年

鑢屑より p145〜
 「十二
 日本橋その他の石橋の花崗岩(みかげいし)が、大正十二年の震火災に焼けてボロボロにはじけた痕が、今日でも歴然と残っている。河の上にあって、近所の建物からかなり遠く離れていて、それでどうしてこんなにひどく焼かれたか不思議のようである。これはもちろん、避難者の荷物が豊富な焚付けを供給したためである。火災後、橋々の上には、箪笥やカバンの金具が一面にちらばっていたのでも、おおよそ想像ができる。
 永くこの経験と教訓を忘れないために、主な橋々に、このやけこぼれた石の柱や板の一部を保存し、その脇に、銅板でも、その由来を刻したものを貼り付けておきたいような気がする。
 徳川時代に、大火の後ごとに幕府から出したいろいろの禁令や心得が、半分でも今の市民の頭に保存されていたら、去年のあの大火は、おそらくあれほどにならなかったに相違ない。
 江戸の文化は、日本の文化の一つである。馬鹿にすると罰が当たる。」

 「十三
 大正十二年のような地震が、いつかは、おそらく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である。その日が来た時に、東京はどうなるだろう。おそらくは今度と同じか、むしろもっとはなはだしい災害に襲われそうである。被服廠跡でも、今度は一箇所ですんだが、この次には、これが何箇所にもなるだろう。それから、今度の地震にはなかった新しい仕掛けの集団殺人設備が、いろいろできているだろう。たとえ高圧水道ができていようが、消防船が幾台できていようが、おそらくそんなものはなんにもなるまい。それが役に立つぐらいなら、今度だって、何かあったはずである。
 もし百年の後*のためを考えるなら、去年ぐらいの地震が、三年か五年に一度ぐらいあった方がいいのかもしれない。そうしたら、家屋は、みんな、いやでも完全な耐火構造になるだろうし、危険な設備は一切影をかくすだろうし、そして市民は、いつでも狼狽しないだけの訓練を持続する事ができるだろう。そうすれば、あのくらいの地震などは、大風の吹いたぐらいのものにしか当たるまい。」
百年の後*: 本文は大震災の翌年大正十三年執筆(一九二四年)。その百年後とは、二〇二四年!!

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そろそろ東京から出ようか。

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posted by Fukutake at 12:30| 日記

タメ口歎異抄

「歎異抄」唯円 著 親鸞 述 河村湊 訳 光文社古典新訳文庫 2009年

p14〜
 第一章「アミダ(阿弥陀)はんの誓いの不思議な力をもろうて、極楽往生は、こりゃあ、間違いなしと信じて。「ナンマイダブ(南無阿弥陀仏)、ナンマイダブ(南無阿弥陀仏)」と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにお助けにあずかり、アミダはんにお引き受けいただき、(もう)捨てられまへん(=摂取不捨)というご利益にあずかっとるんや。
 アミダはんの本願(ブッダになるための願いのことや)には、年寄りやの、若いのやの、悪い奴やの、一切合切の違いなど無うて、ただ信心だけが、肝心なんや。なんせ、どうしようもなく悪い奴、罪深うてしょむない奴らを助けてやろうちゅう願かけなんやからな。そやから、アミダはんを信じとれば、ほかに善えことを無理にしょなんてことも要らへんのや。「ナンマイダ」の念仏にまさる善えことなんぞ、ほかにあらへんのや。悪いことかて、恐るるに足らずや。アミダはんの本願を邪魔する以上の悪なんか、ほかにあるはずもないんやから(といわはりました)。」
(略)
 第三章「善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない。世間のしょむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なんで善え奴がそないならんことあるかいなというとるけれど、なんや理屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)ちゅうモットーにはずれとるんや。
 つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」ちゅう気持ちの欠けてる分だけ、アミダはんのいわゆる誓いと違うとる。けども「自分頼み(自力本願)」という心を入れ替えて、まあ「あんじょう頼んます」と願うとれば、ホンマもんの極楽行きも間違いなしやで。
 アホで悩みっぱなしのワテらは、いくら何をやったところで、悟りなんかひらけるもんかいな。それを見越してアミダはんが、可哀想なやっちゃ、こらあ、いっちょう救ったろかいなと、願かけしてくれはったんや。悪い奴を往生させたるというのやから、「ひとまかせ」で「お願いしますわ」と一途に思うとる悪人が、いちばんに往生してしまうんは、理屈に合うとるわけやな。
 そやから、善え奴でさえ往生する、まして悪人が往生するのは当たり前のことやないかな、と(法然はんは)いわはりましたんや。」

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法然の言葉を親鸞が思い出し、唯円に語った。悪人正機説
posted by Fukutake at 12:28| 日記