「今昔物語・宇治拾遺物語 − 説話集が伝える人生の面白さ−」
古山高麗雄 野坂昭如 世界文化社 2007年
近衛の舎人が一発はなった話 p56〜
「むかし、左近の将曹*(さかん)で秦武員(はたのたけかず)という近衛の舎人がいた。
禅林寺*の僧正の御壇所*(ごだんしょ)へ参ったときのことである。僧正は武員を僧房に招じて話をしていたのであったが、長時間、僧正の前に坐っているうちに、武員はあやまって、音高く、一発落としてしまったのである。
僧正もその音を聞いた。御前に伺候していた僧たちも。みんな、その音を聞いた。しかし、僧正も無言、僧たちも無言、わずかにただ互いに顔を見合わせるばかりであった。
しばらくして、武員は両手を開き、その手で顔を覆って、「ああ、死にそうでござる」
その声につれて、伺候していた僧たちが、一斉にどっと笑いだした。その笑いにまぎれて、武員は、逃げ出したのである。
爾来、武員は、久しく僧正の所にあらわれなかったということだが、放屁なるもの、音を聞いたとたんに笑わなければいけない。あとでゆっくり話に出したり笑ったりするべきものではない。
「軽口の巧みな近衛の舎人、武員だからこそ、ああ死にたいなどと、臨機応変のことを言ったのである。地の者なら、ただただむつかしい顔をして、むっつと口を閉ざしているばかりで、見た眼にも気の毒、座も白けるというものだ」
と、世の武員に対する評判は、悪くなかったそうな。」
(巻二十八・第十) 訳・古山高麗雄
将曹*:近衛府の四等官。兵卒の統率者。
禅林寺*:京都市左京区にある永観堂。
御壇所*:僧侶が集まって学問をする場所。
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吉本芸人にもなれそう。
ホームレスになりたい
「ツチケンモモコラーゲン」 さくらももこx 土屋賢二 集英社 2001年
p131〜
「ツチヤ よく、例えばホームレスの人を見てああいう何ものにもとらわれないような気軽な生活をしてみたいなと言ったりすることがありますね。
ももこ 私は軽はずみにそういうふうなことは言わないようにしていますが、たしかにそういうことを言う人はけっこういますね。
ツチヤ か、軽はずみですよね…。実は、今まで隠していましたが、僕は軽はずみな男なんです。よく、ホームレスになってみたいとか、山奥で木こりの生活をしたいとか。軽々しく考えるんです。「木こり」が何をする人なのか知らないのに。でも「じゃ本当にキミをホームレスにしてやる」とか言われたら、たぶん断ると思うんですよ。
ももこ そうですね。本当になりたかったら家から出ていけばいいだけですから、まだホームレスになってないんでしょうね。だから私はそういう軽口は叩かないようにしているんです。
ツチヤ 慎重ですねぇ。ちびまる子ちゃんじゃないみたいだ。よく、鳥になって空を自由に飛びたいという人がいますよね。軽はずみな人が。その人に神様が「じゃ鳥にしてやる」と言ったら、その人は断ると思うんです。ミミズなんかを食べなきゃいけなくなるんだし。つまり僕が言いたいのは、「望んでいる」とか「なりたい」と言っても、本当に望んでいるとはいえない場合があると思うんです。これと同じ例かどうかわかりませんが、精神分析のフロイトが挙げている例だと、長年切望していた地位についたとか、ずっと想っていた相手と結ばれたらさぞ幸福だろうと思うんですけど、実際には、そういう願望がかなったとたんに、ノイローゼになることがあるらしいです。だから「こうなりたい」と思っていても簡単な場合ばかりではないと思うんです。さくらさんはホームレスがちょっとでもうらやましく思えることがありませんか?
ももこ うらやましいというか、ホームレスになりたくて、なってやるぞという割り切りのうえで楽しく生きている人に対しては生き生きとした力強さを感じますよね。割り切りがあるかないかということって、すごく大事だと思うんですよ。選択したことに後ろを向かないという、そういう気合はホームレスばっかりだったら、本当にホームレスになろうかっていう人がもっと増えるんじゃないでしょうか。また多くの人が思い留まっているのは、そういう生き生きとしたホームレスよりも、オレは本当はこんな人生になりたくなかったのにやってるんだというホームレスのほうが多いかもしれませんね。」
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昔はバタ屋(クズ拾い)に憧れるというのが流行でした。
p131〜
「ツチヤ よく、例えばホームレスの人を見てああいう何ものにもとらわれないような気軽な生活をしてみたいなと言ったりすることがありますね。
ももこ 私は軽はずみにそういうふうなことは言わないようにしていますが、たしかにそういうことを言う人はけっこういますね。
ツチヤ か、軽はずみですよね…。実は、今まで隠していましたが、僕は軽はずみな男なんです。よく、ホームレスになってみたいとか、山奥で木こりの生活をしたいとか。軽々しく考えるんです。「木こり」が何をする人なのか知らないのに。でも「じゃ本当にキミをホームレスにしてやる」とか言われたら、たぶん断ると思うんですよ。
ももこ そうですね。本当になりたかったら家から出ていけばいいだけですから、まだホームレスになってないんでしょうね。だから私はそういう軽口は叩かないようにしているんです。
ツチヤ 慎重ですねぇ。ちびまる子ちゃんじゃないみたいだ。よく、鳥になって空を自由に飛びたいという人がいますよね。軽はずみな人が。その人に神様が「じゃ鳥にしてやる」と言ったら、その人は断ると思うんです。ミミズなんかを食べなきゃいけなくなるんだし。つまり僕が言いたいのは、「望んでいる」とか「なりたい」と言っても、本当に望んでいるとはいえない場合があると思うんです。これと同じ例かどうかわかりませんが、精神分析のフロイトが挙げている例だと、長年切望していた地位についたとか、ずっと想っていた相手と結ばれたらさぞ幸福だろうと思うんですけど、実際には、そういう願望がかなったとたんに、ノイローゼになることがあるらしいです。だから「こうなりたい」と思っていても簡単な場合ばかりではないと思うんです。さくらさんはホームレスがちょっとでもうらやましく思えることがありませんか?
ももこ うらやましいというか、ホームレスになりたくて、なってやるぞという割り切りのうえで楽しく生きている人に対しては生き生きとした力強さを感じますよね。割り切りがあるかないかということって、すごく大事だと思うんですよ。選択したことに後ろを向かないという、そういう気合はホームレスばっかりだったら、本当にホームレスになろうかっていう人がもっと増えるんじゃないでしょうか。また多くの人が思い留まっているのは、そういう生き生きとしたホームレスよりも、オレは本当はこんな人生になりたくなかったのにやってるんだというホームレスのほうが多いかもしれませんね。」
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昔はバタ屋(クズ拾い)に憧れるというのが流行でした。
posted by Fukutake at 11:46| 日記