「朝鮮奥地紀行1」 イザベラ・バード 朴 尚得 訳
東洋文庫(平凡社)1993年
朝鮮の印象 p52〜
「私は魅力的なイギリス人の[ウナ] と古い釜山に同行した。彼女はほとんど土地っ子(朝鮮人)同様に朝鮮語を話した。市日の人ごみの中を落着いて進んだ。全ての人たちに歓迎された、惨めな所だ、と思ったが、後程の経験によると、朝鮮の町の一般的な通路で、とりわけ惨めなものでもなかった。狭くてきたない通りには、泥を塗り付けた編み枝で建てられた低いあばら家がある。その家には窓が無い。藁屋根と深い庇がある。全ての壁には、地上二フィート(0.六一メートル)のところに黒い煙の穴がある。家の外側はほとんど固体や液状のごみが入っているでこぼこしたどぶである。毛の抜けた犬どもと、半裸か全裸の埃だらけできたないただれ目の子供たちが、深い塵やどろどろした汚物のなかで転げ回っているか、日なたで喘いだり目をぱちくりさせている。どうもいっぱいの悪臭にもこたえないらしい。しかし市日には、嫌悪を催させる多くのものが覆い隠されていた。
狭い、ごみだらけので曲がりくねっている通りの端から端まで、品物が地べたの敷物の上にぎっしり置かれていた。汚れた白い木綿地にくるまれた男か老女がそれを見張っている。商談する物音が高くあがり、息を切らしてもともと取るに足らない価格を値切っていた。品物は買い手の貧しさと売買の少なさを印象づけている。丈の短いざらざらときめの粗い木綿、木綿糸のかせ*(木偏に上下)、草履、木の櫛、煙草と煙草入れ、魚の干物と海草、帯紐、ざらざらした粗い紙やすべすべと滑らかな紙、黒色に近い大麦糖が敷物の上の品物の中身であった。そこに在る一番貴重な手持ち商品も三ドル以上の値打ちは無いと思われる。露天商人たちは各自そばに葉銭の小さな山を持っていた。その葉銭は真中に四角い穴が開いている、やぼったい青銅の硬貨で、当時、名目上一ドル当たり三千二百葉銭もして、朝鮮の交易の自由を大いに、無力にしていた。
事実上、村や小さな町には店は無い。必要な物は、決められた日に、たいへん強力な同業組合を形成している行商人が供給している。」
(木綿のかせ* : 木綿糸の束)
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一八九四年一月(日清戦争直前の頃)の朝鮮の町風景。
2020年10月07日
百二十年前の朝鮮風景
posted by Fukutake at 11:31| 日記
細川忠興
「名将言行録」−大乱世を生き抜いた192人のサムライたち− 岡谷繁実著
兵頭二十八・編訳 PHP研究所 2008年
(その3)
p242〜
「細川忠興 細川藤孝の子。豊前小倉城主、39万9000石、正保2年12月2日没、83歳。
織田信長に従って、天正5年の河内の片岡城攻めに15歳で初陣した。
妻(ガラシア夫人)は、明智光秀の娘である。天正10年、本能寺の変が起こると、忠興は妻子を山奥に押し込めてから、秀吉の下に参陣した。
秀吉が死ぬと、忠興は徳川家康に急接近した。関ヶ原合戦後、豊後の杵築5万石を加増された。ついで慶長7年、小倉に入封した。
忠興は、カブトを発注するとき、水牛角などの大立者の下地として、わざと折れやすい桐の木を指定した。戦場で何かにひっかかったときに、すぐに折れるようにしておかないと、不覚をとるからであった。
大坂の陣の後、医師の伊藤三白が、「死亡または重傷を負って家人にひきずられていく武将は、なぜ皆、下帯を脱しているのだそうですが、それはなぜですか?」と忠興に質した。忠興は答えた。「人は、血が抜けると、肉が細り、帯などは外れ落ちてしまうのだ。それで歴戦の巧者は『もっこふんどし』と称して、首から紐をかけて下帯につなぎ、死後も見苦しくないようにする」
忠興は、子の忠利にはこう教えた。「一人でなんでもできる部下など、どこにもいないと思え。一人ですべてが分かっている者ならば、組織の中で働きはしない。そこを分かっている者が、主君たるべき人である」
晩年は、江戸愛宕下の中屋敷に隠居して「三斎」と称し、3代将軍・家光の物語の相手になっていた。歌道を学ぶことは嫌い、そのため80歳を過ぎてから、後悔した。
鎌倉時代の騎射と犬追物は、すっかり廃れてしまい、知っている武家もなかったところ、細川家には詳細な記録文書が保存されていた。忠興の死後140年ほどして、斎藤高寿(たかひさ)が、その文書に基づいて復礼したのである。」
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今の「永青文庫」か。
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兵頭二十八・編訳 PHP研究所 2008年
(その3)
p242〜
「細川忠興 細川藤孝の子。豊前小倉城主、39万9000石、正保2年12月2日没、83歳。
織田信長に従って、天正5年の河内の片岡城攻めに15歳で初陣した。
妻(ガラシア夫人)は、明智光秀の娘である。天正10年、本能寺の変が起こると、忠興は妻子を山奥に押し込めてから、秀吉の下に参陣した。
秀吉が死ぬと、忠興は徳川家康に急接近した。関ヶ原合戦後、豊後の杵築5万石を加増された。ついで慶長7年、小倉に入封した。
忠興は、カブトを発注するとき、水牛角などの大立者の下地として、わざと折れやすい桐の木を指定した。戦場で何かにひっかかったときに、すぐに折れるようにしておかないと、不覚をとるからであった。
大坂の陣の後、医師の伊藤三白が、「死亡または重傷を負って家人にひきずられていく武将は、なぜ皆、下帯を脱しているのだそうですが、それはなぜですか?」と忠興に質した。忠興は答えた。「人は、血が抜けると、肉が細り、帯などは外れ落ちてしまうのだ。それで歴戦の巧者は『もっこふんどし』と称して、首から紐をかけて下帯につなぎ、死後も見苦しくないようにする」
忠興は、子の忠利にはこう教えた。「一人でなんでもできる部下など、どこにもいないと思え。一人ですべてが分かっている者ならば、組織の中で働きはしない。そこを分かっている者が、主君たるべき人である」
晩年は、江戸愛宕下の中屋敷に隠居して「三斎」と称し、3代将軍・家光の物語の相手になっていた。歌道を学ぶことは嫌い、そのため80歳を過ぎてから、後悔した。
鎌倉時代の騎射と犬追物は、すっかり廃れてしまい、知っている武家もなかったところ、細川家には詳細な記録文書が保存されていた。忠興の死後140年ほどして、斎藤高寿(たかひさ)が、その文書に基づいて復礼したのである。」
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posted by Fukutake at 11:26| 日記