「ファスト&スロー −あなたの意思はどのように決まるか?−(下)」
ダニエル・カーネマン 村井章子(訳) 友野典男(解説)
ハヤカワ・ノンフィクション文庫 2014年
楽観主義の抑制 p67〜
「おそらく組織の方が、個人より楽観主義をうまく抑えられるであろう。そのために一番よいと考えられるのは、次の方法である。やり方は簡単で、何か重要な決定に立ち至ったとき、まだそれが正式に公表しないうちに、その決定をよく知っている人たちに集まってもらう。そして、「いまが一年後だと想像してください。私たちは、さきほど決めた計画を実行しました。すると大失敗に終わりました。どんなふうに失敗したのか、五〜十分でその経過を簡単にまとめてください」と頼む。この方法を「死亡前死因分析」と名付けよう。
このアイデアには、たいていの人が感嘆する。ダボス会議の場で私がこれを話題にしたところ、後ろにいた誰かが「これを聞いただけでもダボスに来た甲斐があった」と呟いたものである。死亡前死因分析には、大きなメリットが二つある。一つは、決定の方向性がはっきりしてくると多くのチームは集団的思考に陥りがちになるが、これを克服できることにある。もう一つは、事情をよく知っている人の想像力を望ましい方向に解放できることである。
チームがある決定に収束するにつれ、その方向性に対する疑念は次第に表明しにくくなり、しまいにはチームやリーダーに対する忠誠心の欠如とみなされるようになる。とりわけリーダーが無思慮に自分の意向を明らかにした場合がそうだ。そうして懐疑的な見方が排除されると、集団的に自信過剰が生まれその決定の支持者だけが声高に意見を言うようになる。死亡前死因分析のよいところは、懐疑的な見方に正統性を与えることだ。さらに、その決定の支持者にも、それまで見落としていた要因がありうると考えさせる効果がある。死亡前死因分析は万能薬ではないし、予想外の不快な事態を完全に防げるわけでもない。だが、少なくとも、「見たものがすべて」という思い込みと無批判の楽観主義というバイアスのかかった計画から、いくらかは損害を減らす役に立つことだろう。」
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自案を間違っているかもという前提で見直す重要性。
大石良雄 従僕の話
「近世畸人伝・続近世畸人伝」 伴蒿蹊 著 三熊花顚・宗政五十緒 校注
東洋文庫 平凡社 1972年
p60〜
「大石良雄、赤穂の城を退て後、暫(しばらく)其城下に在りてことを辨(わきま)へ、京に登らんとせる時、もと使う所の奴僕八介なるもの、同城下に住るが、来訪ひていふ。我も御供して京へまゐり侍らんを、今は老はてぬれば心にまかせず、これは御対面たまはる限ならんと、御名残いはんかたなし。ただし何にまれ御かたみの物をたまわらば、身のあらん限御傍に侍る心地ならんと。良雄うなづきて、げにことわり也。何ぞとらせん、とあたりを見れども、調度どもはや半ば京へ送り、残れる荷づくりたれば物なし。硯の入りたるはこひとつあけたれば、金弐拾片ばかりありけるを、せめて是をとて与える時、八介大いに息まきて、ただちに投げ返し、是が何のかたみぞ、身こそ賎しけれ、心はさばかり下らんや。此たび殿の不意になくならせ給へるは、吾等ごときすら限りなく悲しく口をしきに、おめおめと城を明けて、はひ出でる心にくらべらるるか。今かたみもほしからず、とてはしり出でんとするを、さすがの良雄なれば、しひてとどめて、いとことわり也、我あやまてりあやまてり。あまりに与ふるもなきゆゑの事ぞ。今おもひよりたこと有とて、墨押すり、ありあふ紙引きひろげて、堤の上に編笠著たる士の、奴一人つれたるかたを書きて、是はおぼえたるや、わかくて江戸に在りし日、汝をつれて吉原の花街(くるわ)へかよひし道のさま也。是はかたみともなりなんや、といへば、忽ち大いによろこびて、これこれ、是にまさる御かたみなし。其時はかくありし、兎(と)ありし、など昔語して、泣泣暇乞て帰りしが、其かけるもの、奴が女の婿に伝え、その主なりし城下の医生の家に珍蔵せりと、其国人の話なり。義士の奴に朴実清廉の者有けるは、美談とすべし。」
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赤穂義士の裏話。
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東洋文庫 平凡社 1972年
p60〜
「大石良雄、赤穂の城を退て後、暫(しばらく)其城下に在りてことを辨(わきま)へ、京に登らんとせる時、もと使う所の奴僕八介なるもの、同城下に住るが、来訪ひていふ。我も御供して京へまゐり侍らんを、今は老はてぬれば心にまかせず、これは御対面たまはる限ならんと、御名残いはんかたなし。ただし何にまれ御かたみの物をたまわらば、身のあらん限御傍に侍る心地ならんと。良雄うなづきて、げにことわり也。何ぞとらせん、とあたりを見れども、調度どもはや半ば京へ送り、残れる荷づくりたれば物なし。硯の入りたるはこひとつあけたれば、金弐拾片ばかりありけるを、せめて是をとて与える時、八介大いに息まきて、ただちに投げ返し、是が何のかたみぞ、身こそ賎しけれ、心はさばかり下らんや。此たび殿の不意になくならせ給へるは、吾等ごときすら限りなく悲しく口をしきに、おめおめと城を明けて、はひ出でる心にくらべらるるか。今かたみもほしからず、とてはしり出でんとするを、さすがの良雄なれば、しひてとどめて、いとことわり也、我あやまてりあやまてり。あまりに与ふるもなきゆゑの事ぞ。今おもひよりたこと有とて、墨押すり、ありあふ紙引きひろげて、堤の上に編笠著たる士の、奴一人つれたるかたを書きて、是はおぼえたるや、わかくて江戸に在りし日、汝をつれて吉原の花街(くるわ)へかよひし道のさま也。是はかたみともなりなんや、といへば、忽ち大いによろこびて、これこれ、是にまさる御かたみなし。其時はかくありし、兎(と)ありし、など昔語して、泣泣暇乞て帰りしが、其かけるもの、奴が女の婿に伝え、その主なりし城下の医生の家に珍蔵せりと、其国人の話なり。義士の奴に朴実清廉の者有けるは、美談とすべし。」
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posted by Fukutake at 09:05| 日記