2020年10月01日

虚心に歴史を思い出す

「無常という事」 小林秀雄 角川文庫

無常という事 p61〜
 「…歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前はたいへん難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力あるさまざまな手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かしがたい形となって映ってくるばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにしてやられるような脆弱なものではない。そういうことをいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が考証に堕したというような説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼はおそらくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じようなものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。そんなことをある日考えた。また、ある日ある考えが突然浮かび、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうもしかたがない代物だな。何を考えているやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこへ行くと死んでしまった人間というものはたいしたものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」
 この一種の動物という考えは、かなりぼくの気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史は死人だけしか現れてこない。したがってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。ぼくらが過去を飾りがちなのではない、過去の方でぼくらによけいな思いをさせないだけなのである。思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくていけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心を虚しくして思い出すことができないからではあるまいか。…」
(昭和十七年六月)

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「思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救う」
posted by Fukutake at 08:41| 日記

歴史に向かい合う態度

「柳田國男全集 13」ちくま文庫

学生生活 p216〜
 「私などの学生生活は、諸君の時代に先だつこと四十余年、今頃もう何の話をしてみても、共通点などはないかのごとく、始めから見切りを付けている人も多いことであろう。実際また外形だけから言うならば、時世は変わっていることも確かに変わっている。ただその変化はどの点までか、ということが問題になるのである。内側から見れば、明治時代はおろか、江戸期の三百年をさえ通り越して、遠くは平安朝の大学生と比べても、さして大きなちがいのない点もあり得る。少なくとも古今の学生生活を共通ならしめるような、社会事情がなかったとは断言できない。この昔から現在へと変遷したものを、明らかにすることももちろん歴史であるが、それと同時にその千年以来を一貫した何物かのあることを知らず、時さえ過ぎれば何でもかでも、必ず変わっているにちがいないと速断してしまわぬように、注意させてくれるのもまた歴史の学問である。
 この最少限度の歴史知識、たとえ知識というほどの纏まったものでなくとも、少なくとも一つの観念、もしくは当世の史学に対する一つの態度、私たちが仮に名づけて史心というものだけは、いかなる専門に進む者にも備わっていなければならぬことは、ちょうど今日問題になっている数学や生物学も同じことだと思う。私などが普通教育において授けられた数学は乏しくまた不完全なものであった。そのために一生の間、精確ということの真の意味が解らず、いつも自分量とか程合いとかいう類の、母親ゆずりの機敏さをもって、その欠陥を補おうとして不必要に精力を費やしているのである。それと似たような歎きを、歴史の方向においても抱いている人はないかどうか。始めから考え方を教えられぬために、考えようとしないというおそれはないかどうか。それを一たび反省してみるということも、実は望ましい人生修練の機会なのである。諸君は果たしてどういう予想をもって、今度の講義を聴きに出られたろうか、私にはそれを推測することはできないが、自分の方には実は一つの動機があったのである。最初にそれを告白しておく方が便利と思うが、手短にいうとわれわれお互いには、「それはまだ気付かずにいた」と言わねばならぬことが幾つもある。新たに気を付けていれば今からでも、それがだんだん判って来そうだ。歴史を人生に役立たせようと思えば、学ぶべき方法は眼の前にもある。そういう己を空しゅうする者の悦びを、もしできるなら諸君にも分かちたいのである。…」
(昭和十六年)

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虚心に歴史に思いをはせる態度。
posted by Fukutake at 08:38| 日記