「歎異抄」唯円 著 親鸞 述 河村湊 訳 光文社古典新訳文庫 2009年
p14〜
第一章「アミダ(阿弥陀)はんの誓いの不思議な力をもろうて、極楽往生は、こりゃあ、間違いなしと信じて。「ナンマイダブ(南無阿弥陀仏)、ナンマイダブ(南無阿弥陀仏)」と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにお助けにあずかり、アミダはんにお引き受けいただき、(もう)捨てられまへん(=摂取不捨)というご利益にあずかっとるんや。
アミダはんの本願(ブッダになるための願いのことや)には、年寄りやの、若いのやの、悪い奴やの、一切合切の違いなど無うて、ただ信心だけが、肝心なんや。なんせ、どうしようもなく悪い奴、罪深うてしょむない奴らを助けてやろうちゅう願かけなんやからな。そやから、アミダはんを信じとれば、ほかに善えことを無理にしょなんてことも要らへんのや。「ナンマイダ」の念仏にまさる善えことなんぞ、ほかにあらへんのや。悪いことかて、恐るるに足らずや。アミダはんの本願を邪魔する以上の悪なんか、ほかにあるはずもないんやから(といわはりました)。」
(略)
第三章「善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない。世間のしょむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なんで善え奴がそないならんことあるかいなというとるけれど、なんや理屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)ちゅうモットーにはずれとるんや。
つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」ちゅう気持ちの欠けてる分だけ、アミダはんのいわゆる誓いと違うとる。けども「自分頼み(自力本願)」という心を入れ替えて、まあ「あんじょう頼んます」と願うとれば、ホンマもんの極楽行きも間違いなしやで。
アホで悩みっぱなしのワテらは、いくら何をやったところで、悟りなんかひらけるもんかいな。それを見越してアミダはんが、可哀想なやっちゃ、こらあ、いっちょう救ったろかいなと、願かけしてくれはったんや。悪い奴を往生させたるというのやから、「ひとまかせ」で「お願いしますわ」と一途に思うとる悪人が、いちばんに往生してしまうんは、理屈に合うとるわけやな。
そやから、善え奴でさえ往生する、まして悪人が往生するのは当たり前のことやないかな、と(法然はんは)いわはりましたんや。」
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法然の言葉を親鸞が思い出し、唯円に語った。悪人正機説
2020年10月15日
天狗
「遠野物語」 柳田國男 角川文庫
遠野物語拾遺 p109〜
「98 遠野の一日市に万吉米屋という家があった。以前は繁盛した大家であった。この家の主人万吉、ある年の冬稗貫郡の鉛ノ温泉に湯治に行き、湯槽に浸っていると、戸を開けて一人のきわめて背の高い男がはいって来た。退屈していた時だからすぐに懇意になったが、その男おれは天狗だといった。鼻はべつだん高いというほどでもなかったが、顔は赤くまた大きかった。そんなら天狗様はどこに住んでござるかと尋ねると、住所は定まらぬ、出羽の羽黒、南部では巌鷲早池峰などの山々を、行ったり来たりしているといって万吉の住所をきき、それではお前は遠野であったか、おれは五葉山や六角牛へも行くので、たびたび通って見たことはあるが、知り合いがないからどこへも寄ったことがない。これからはお前の家に行こう。何の仕度にも及ばぬが、酒だけ多く御馳走してくれといい。こうして二、三日湯治をして、また逢うべしと言い置いてどこへか行ってしまった。その次の年の冬のある夜であった。不意に万吉の家にかの天狗が訪ねて来た。今早池峰から出て来てこれから六甲牛に行くところだ。一時も経てば帰るから、今夜は泊めてくれ。そんなら行って来ると言ってそのまま表へ出たが、はたして二時間とも経たぬうちに帰って来た。六角の頂上は思いのほか、雪が深かった。そう言ってもおまえたちが信用せぬかと思ってこの木の葉を採って来たと言って、一束の梛*の枝を見せた。町から六角牛の頂上の梛の葉のある所までは、片道およそ五、六里もあろう。それも冬山の雪の中だから、家の人は驚き入って真に神業と思い、深く尊敬して多量の酒を飲ましめたが、天狗はその翌朝出羽の鳥海に行くと言って出て行った。それから後は年に一、二度ずつ、この天狗が来て泊まった、酒を飲ませると、ただでは気の毒だといって、いつも光り銭(文銭)を若干残しておくを例とした。酒が飲みたくなると、訪ねて来るようにもとられる節があった。そういう訪問が永い間続いて、最後に来た時にはこう言ったそうである。おれももう寿命が尽きて、これからはお前たちとも逢えぬかも知れない。形見にはこれを置いてゆこうと言って、着ていた狩衣のような物を脱いで残して行った。そうして本当にそれきり姿を見せなかったそうである。その天狗の衣もなおこの家に伝わっている。主人だけが一代に一度、相続の際とかに見ることになっているが、しいて頼んで見せてもらった人もあった。縫い目はないかと思う夏物のような薄い織物で、それに何か大きな紋様のあるものであったという話である。」
(梛(なぎ)* 熊野の御神木となっている)
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少し眉唾っぽいかな。
遠野物語拾遺 p109〜
「98 遠野の一日市に万吉米屋という家があった。以前は繁盛した大家であった。この家の主人万吉、ある年の冬稗貫郡の鉛ノ温泉に湯治に行き、湯槽に浸っていると、戸を開けて一人のきわめて背の高い男がはいって来た。退屈していた時だからすぐに懇意になったが、その男おれは天狗だといった。鼻はべつだん高いというほどでもなかったが、顔は赤くまた大きかった。そんなら天狗様はどこに住んでござるかと尋ねると、住所は定まらぬ、出羽の羽黒、南部では巌鷲早池峰などの山々を、行ったり来たりしているといって万吉の住所をきき、それではお前は遠野であったか、おれは五葉山や六角牛へも行くので、たびたび通って見たことはあるが、知り合いがないからどこへも寄ったことがない。これからはお前の家に行こう。何の仕度にも及ばぬが、酒だけ多く御馳走してくれといい。こうして二、三日湯治をして、また逢うべしと言い置いてどこへか行ってしまった。その次の年の冬のある夜であった。不意に万吉の家にかの天狗が訪ねて来た。今早池峰から出て来てこれから六甲牛に行くところだ。一時も経てば帰るから、今夜は泊めてくれ。そんなら行って来ると言ってそのまま表へ出たが、はたして二時間とも経たぬうちに帰って来た。六角の頂上は思いのほか、雪が深かった。そう言ってもおまえたちが信用せぬかと思ってこの木の葉を採って来たと言って、一束の梛*の枝を見せた。町から六角牛の頂上の梛の葉のある所までは、片道およそ五、六里もあろう。それも冬山の雪の中だから、家の人は驚き入って真に神業と思い、深く尊敬して多量の酒を飲ましめたが、天狗はその翌朝出羽の鳥海に行くと言って出て行った。それから後は年に一、二度ずつ、この天狗が来て泊まった、酒を飲ませると、ただでは気の毒だといって、いつも光り銭(文銭)を若干残しておくを例とした。酒が飲みたくなると、訪ねて来るようにもとられる節があった。そういう訪問が永い間続いて、最後に来た時にはこう言ったそうである。おれももう寿命が尽きて、これからはお前たちとも逢えぬかも知れない。形見にはこれを置いてゆこうと言って、着ていた狩衣のような物を脱いで残して行った。そうして本当にそれきり姿を見せなかったそうである。その天狗の衣もなおこの家に伝わっている。主人だけが一代に一度、相続の際とかに見ることになっているが、しいて頼んで見せてもらった人もあった。縫い目はないかと思う夏物のような薄い織物で、それに何か大きな紋様のあるものであったという話である。」
(梛(なぎ)* 熊野の御神木となっている)
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少し眉唾っぽいかな。
posted by Fukutake at 11:08| 日記
思いやり
「奇跡の脳」 ジル・ボルト・テイラー 竹内薫 訳 新潮社 2009年
脳卒中から再生までの8年間 − 脳の可能性と神秘
p208〜
「読経に聴き入ることは、感情と生理を伴う思考パターンに導くため、心を好ましくないループから抜けださせるもうひとつの重要な手段になります。祈りも、好ましくない思考パターンを、意図的に選んだ思考パターンに換えてくれるので、蜂の巣をつついた騒ぎのような言葉のくりかえしから、意図的にもっと平和な境地へ導く手段となるでしょう。
わたしはサウンディング・ボウル(仏壇の鈴(りん))に声を合わせるのがとても好き。精妙な水晶で作られた大きなボウルがあって、上手に叩くと、骨身に響くほど強く共鳴します。心配事も、鳴り響くボウルの演奏中は忍び寄ることができません。
わたしは、人生で大切だと信じていることに意識を集中させるため、一日何回か、エンジェルカードを引いています。もともとエンジェルカードとはいろんな大きさのカードに、ひとつずつ言葉が書かれているものです。毎朝、起きるとすぐ、儀式として、一人の天使を人生にお招きします。一枚のカードを引くのです。その天使に一日じゅう注意を集中するようにします。ストレスを感じたり、あるいは、重要な電話をしなければならないようなときには、心を右脳に振り向けるため、もう一枚カードを引いたりします。いつも、宇宙がわたしにもたらすものを受け入れやすい状態にしておきたいのです。
エンジェルカードを利用するのは、自分を寛容な心の状態に戻すためです。心を開いているときにわたしを惹きつけるものが、本当に好きだから。エンジェルには、次のようなものがあります。情熱、豊饒、教育、明瞭、統合、遊戯、自由、調和、優雅、そして誕生。エンジェルを引くことは、心を左脳の思慮分別から抜け出させるのに役立つ、最も簡単で最も効果的な方法なのです。
右脳マインドをあらわすキーワードをひとつだけ選ぶとしたら、わたしは迷わず、「思いやり」を選ぶでしょう。あなたにとって思いやりは、何を意味するのでしょうか? どんな状況下で、あなたは人を思いやり、そして思いやりは、からだの内部でどんな感じがしますか?」
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他人に対して寛容な心を持つ。
他のブログを見る : http://busi-tem.sblo.jp
脳卒中から再生までの8年間 − 脳の可能性と神秘
p208〜
「読経に聴き入ることは、感情と生理を伴う思考パターンに導くため、心を好ましくないループから抜けださせるもうひとつの重要な手段になります。祈りも、好ましくない思考パターンを、意図的に選んだ思考パターンに換えてくれるので、蜂の巣をつついた騒ぎのような言葉のくりかえしから、意図的にもっと平和な境地へ導く手段となるでしょう。
わたしはサウンディング・ボウル(仏壇の鈴(りん))に声を合わせるのがとても好き。精妙な水晶で作られた大きなボウルがあって、上手に叩くと、骨身に響くほど強く共鳴します。心配事も、鳴り響くボウルの演奏中は忍び寄ることができません。
わたしは、人生で大切だと信じていることに意識を集中させるため、一日何回か、エンジェルカードを引いています。もともとエンジェルカードとはいろんな大きさのカードに、ひとつずつ言葉が書かれているものです。毎朝、起きるとすぐ、儀式として、一人の天使を人生にお招きします。一枚のカードを引くのです。その天使に一日じゅう注意を集中するようにします。ストレスを感じたり、あるいは、重要な電話をしなければならないようなときには、心を右脳に振り向けるため、もう一枚カードを引いたりします。いつも、宇宙がわたしにもたらすものを受け入れやすい状態にしておきたいのです。
エンジェルカードを利用するのは、自分を寛容な心の状態に戻すためです。心を開いているときにわたしを惹きつけるものが、本当に好きだから。エンジェルには、次のようなものがあります。情熱、豊饒、教育、明瞭、統合、遊戯、自由、調和、優雅、そして誕生。エンジェルを引くことは、心を左脳の思慮分別から抜け出させるのに役立つ、最も簡単で最も効果的な方法なのです。
右脳マインドをあらわすキーワードをひとつだけ選ぶとしたら、わたしは迷わず、「思いやり」を選ぶでしょう。あなたにとって思いやりは、何を意味するのでしょうか? どんな状況下で、あなたは人を思いやり、そして思いやりは、からだの内部でどんな感じがしますか?」
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他人に対して寛容な心を持つ。
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posted by Fukutake at 11:07| 日記