2020年01月09日

「菊と刀」を難ずる

「内なる外国」 -『菊と刀』再考 -  C.ダグラス・スミス 
 加地永都子 訳 ちくま学芸文庫 1997年
(その1)

日米に理解は可能か?
p202〜

 「しかしここでわれわれは大きな問題にぶつかる。すなわち人類学の中には − とくに(ルース)ベネディクトの人類学では − ある一定の行動様式を「自然的」と呼ぶ基盤などどこにもないのである。ベネディクトの教えの基本は、文化 − すなわち学び取った行動 − は人為的なものであること、どこの国であれ − 米国でも日本でも − その文化は型づけられていること、そして自分自身の文化を特別に自然によって定められていると主張することは、自民族中心主義の罪を犯していること等であった。『文化の型』の中で熱情をこめて弁護したこの論題がいまや『菊と刀』において捨て去られるというのは、いったいどういうことか。針金の台の上の菊というイメージは明らかにアン・シングルトンのものであり、人が型を逃れどうにかして「自然」に振舞うための方法があるというのも、アン・シングルトンの考え方なのだが、アメリカ社会が自然的だという考えは、彼女の初期の著作には、詩人、人類学者のいずれにも、見出だせない。事実、この考えは両者がとくに否定したものなのだ。ここにもわれわれは、ベネディクトがアメリカと和解したため支払った代価をみる。なぜならこうした考えの源は難なく探り出せるからだ。これこそアメリカン・イデオロギーそのもののまごうことなき声なのである。
 『文化の型』と同様、『菊と刀』は人類学研究の著作というよりは政治論文である。同書も『ガリバー旅行記』に似ている。ベネディクトが描き出す「日本」は、ある部分は現実に存在する国家に基づき、ある部分は彼女の理論上の目的に合うよう形造られているが、その技法があまりに巧みなので、多くの日本人ですらそれが母国について書かれたものだとだまされてきた。だがこれは物語化された日本であり、ベネディクトの最後の「山のかなたにある国」の幻なのだ。しかし『文化の型』と異なり、目的はもはやアメリカの自己批判ではない。逆に、今回ベネディクトが創造するのはアメリカにとって当然敵となるべき国、理論的にも道徳的にもアメリカが第二次大戦で打ち負かして当然至極であるような国である。それは市場や資源を求める帝国主義的競争相手などでは決してなく、民主主義と自由の名においてのみ戦争をする国家としての自己イメージをアメリカ人が持ちつづけるために、日本があらねばならなかった国なのである。」

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Ruthは単なる扇動家、宣伝屋だった。

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posted by Fukutake at 10:59| 日記