2020年01月01日

絶世美女のインド

「三島由紀夫紀行文集」 佐藤秀明編 岩波文庫 2018年
(その4)

インド通信

p249〜
 「インドではすべてがあからさまだ。すべてが呈示され、すべてが人に、それに「直面する」ことを強いる。生も死も、そしてあの有名な貧困も。
 最初に訪れた都市ボンベイは、美しい町だった。その汚らしさも含めて、言うに言われず美しいのである。街路のどこを区切っても、そのまま絵になる。昔、英国女王や総督がここから上陸してインドに入った壮麗な海門がホテルのすぐ前に見えるが、泥色に笹立ったアラブ海風の中で、代赭色のその凱旋門風の門のまわりに、さまざまの色のサリーの女、頭に荷を負った女、漆黒の乞食、白衣の水兵たちが、色彩のゆたかな一タブロオを作り上げる。私が「絵」と言うは、そればかりではない。
 ニューヨークの街路の人たちは、ただ立って歩いているだけだ。しかし、ここでは、人々はただ立って歩いているのではない。歩く者、立止まる者、しゃがんでいる者、寝ている者、バナナを食べている者、とびはねる子供、高い台の上に坐っている老人、これに白い聖牛が加わり、犬が加わり、鳥籠の鸚鵡が加わり、蝿が加わり、緑濃い木々が加わり、赤いターバンや美しいサリーが加わる。加わって、動いて、渾然として、一瞬一瞬に完成して又移り変わる「生」に絵を描くことに力を合わせている。
 ともすると、「生」というもののもっとも可視的な定義は、そこにフレームを与えて、ただちに絵になるもの、ということに尽きるかもしれない。絵にならないものは、いわば本当に生きていないのだ。
 インドは世界一の美人国かもしれない。「かもしれない」というのは譲歩した言い方で、私の主観からすれば、世界一の美人国にまちがいがない。鄙にも希な、と日本では言うが、都鄙を問わず、この世のものとは思われぬ優雅な美女に出会う。「息を呑む美しさ」などという形容は、このごろ気の利いた大衆作家なら、もう使わない表現だが、ホテルのロビーや、社交界の人の集まる劇場や、あるいはオールド・デリーの汚い小路や、牛車の上にさえ、時折、千夜一夜物語のあの誇張した表現も決して誇張ではない、深潭のような目をした絶世の美女を見ることが稀ではない。」


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インドの生と死

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posted by Fukutake at 06:31| 日記