2019年12月31日

原理主義の害悪

「『裸のサル』の幸福論」 デズモンド・モリス 新潮新書 2005年

痛みの幸福(マゾヒスト)
ピューリタンとは

 p75〜
 「アメリカ人ジャーナリストのH.L.メンケンは、こんな巧みな要約をしています。「ピューリタニズムの根底には、たった一つの衝動しかない。自分たちこそが幸福へのより大きな資格を持っているとみなし、他人を罰する衝動だ」
 ピューリタニズムが国家全体を覆うようになれば、禁止される活動の領域はどんどん増えていきます。人間の快楽は、堕落した、罪深い、過剰な浪費であるとみなされます。公的立場にある人たちや指導者層は、糾弾されるのを恐れて、しぶしぶではあってもこうしたピューリタニズムの隆盛に消極的支持を表明するようになります。全ての文化がピューリタニズムに毒され、反快楽主義者が勝ちを収めるのに時間はかかりません。彼らの特殊なマゾヒスト的幸福が社会全体を覆ってしまうのです。
 最近見られたこうした動きの典型例は、アフガニスタンにおけるタリバンの登場でしょう。彼らは、日々の幸福の源泉である音楽やテレビ、ダンス、映画すら、ことごとく禁止してしまいました。
 他人に悲惨さを強いることに使命感を燃やすのは、一見サディズムのように思われるかもしれませんが、違います。禁止を強いる人々の一番の動機は、人々を傷つけることで快感を得ることではありません。そうではなく、自分たちが喜びとするようになったマゾヒスト的幸福を他人にも感染させたくてやろうという意思なのです。彼らはこの自己否定の快楽を、ほかのみんなと共有したいのです。
 …
 もちろん快楽にふけるのは多少のコストがかかりますが、精神的マゾヒストたちはこのコストを千倍にも誇張して見積もっており、なおかついつまでもその説を曲げません。彼らが気づきたがらないことの一つは、快楽主義者たちよりも自分たちの方が健康であるとの主張が、事実は違っていることです寿命100歳以上の人々に関する研究では、何らかの自己否定的な活動に邁進しても。寿命が長くなるとは限らないことが明らかになっています。実際、自己否定的に必須なマゾヒスト的気質は、寿命を延ばすよりも縮めるもののように思われます。」

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自己否定(節制)の強迫観念は健康を害する。
posted by Fukutake at 08:12| 日記

2019年12月30日

詐欺=誤解を与える

「誤解学」 西成活裕 新潮選書 2014年

詐欺 p34〜

 「詐欺も誤解と密接に関係している。悪意を持っている人でも善人を装って近づいてくれば、なかなかその本性は見抜けない。初めにこの人は親切でいい人だ、と誤解してしまうことで、より深みにはまっていくのだ。
 『「心理戦」で負けない本』(伊藤明・内藤誼人共著、アスペクト)には、様々な詐欺の手口が解説してあり興味深い。なかでも誤解に関連したものとして「フットインザドアテクニック」というものが紹介されている。これは初めは簡単なことを頼んで承諾してもらい、その後に頼みごとのレベルをつりあげていって最終的に大きなことことを承諾させるテクニックである。例えば、街を歩いていて「ちょっと二、三分だけ時間をもらえませんか、すぐ終わりますから」と声をかけられたとする。少しならいいか、と思って相手の誘いにのると、実は二、三分どころかズルズルとかなり時間を取られてしまい、最終的に相手の勧める商品を購入してしまう、というパターンである。相手の「すぐ終わる」という言葉をそのまま誤解して受け取ってしまったケースと言えよう。これは、相手の言ったことを一度受け入れてしまうと、その後は断りにくくなるという、心理学でよく知られた「コミットメント」と言われる効果によるものだ。ちなみにこの「フットインザドアテクニック」という名前は、訪問販売で、玄関のチャイムを鳴らし、相手がドアを開けた瞬間に自分の片足をドアにかけて閉められなくすれば、もう押し売りは成功したようなものだ、という話に由来している。
 もう一つ、誤解と絡めて考えると興味深い例を同書から引用しよう。投機予想詐欺というものだ。例えばある人が「小麦の値段がこれから上がります」と予言して、本当にそうなったとする。そして次にまたその人が、「次は小麦の値段が下がります」と言って、またそれが当たったとしよう。そうなるとかなりの人がその人の言うことを信じてしまうだろう。実はこれは誤解で、その人は本当に当てたわけではないのである。そのからくりは以下の通りである。例えば最初、百人の人に声をかけ、半分の五十人には「小麦は下がる」と言い、残り五十人には「小麦は上がる」と言う。そして今度は当たった方のさらに半分の二十五人に同じよう「小麦は下がる」と言い、残り半分に「小麦は上がる」と言う。この方法によれば、少なくとも二十五人には、二回とも予言が当たったと思わせることができるのである。ここで信用してしまい、次もこの人は当てるかもしれないと思って大金を投資すると、そのままお金と一緒にその人はどこかへ消えてしまうのだ。このように詐欺師は誤解を起こさせる天才的なテクニックを駆使しており、誤解を考えるうえで大いに参考になる。」

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まず信用させる


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posted by Fukutake at 09:57| 日記

進化ではなくパターンの相違

「帰ってきたファーブル」現代生物学方法論  日高敏隆 
  講談社学術文庫 2005年

 動物学から見た世界
 p206〜

 「… 次はどこへ行くかわからないチョウのふらふらした飛びかたは、彼らの恐ろしい敵である鳥からも、彼らを守ることになった。鳥はその飛翔の力学的原則からいって、急速な方向転換ができない。したがってまっすぐチョウをねらってきた鳥はチョウがフワッと位置を変えてしまうと、もはや何ともしようがないのである。
 これを「適応」と言えば言えるだろう。けれど、そう言ってみたところで、説明が深まるわけではない。むしろぼくは、これらのことのあいだに、単に矛盾がなかったのにすぎないと考えたい。矛盾がなかったからこそ、彼は今まで存在してきたのである。
 もし適応であると考えるなら、現実に生きている生物は、どの種もすべて適応している。しかも、じつによく、じつに巧みに適応している。より適応したものなど、考えることができない。
 もちろん、体の一部を切り離して、そこだけを比較してみるなら、一連の種のあいだに一つの系列をつくってみることはできる。けれど、その系列のなかのもっとも下に位置するもの、つまりもっとも原始的なものが、それより上位のものに比べて、けっして生活のうえで下手なものではない。その種の全生活と比較してみるとき、われわれはもはや、どちらがより適応しているか、などとは言えなくなる。現在の環境のなかでは、どちらもほとんど完璧と言えるくらい適応しているし、もし環境が変わったとすれば、どちらも同じくらい不適応である。
 それは、ある部分が一見未発達と思われたとしても、それは、その部分の使いかたの巧みさか、使いかたのちがいか、あるいは他の部分の発達によって、必ず補いがついているからである。スケールはけっして一つしかないのではない。
 要するに、動物の世界、いやもちろん植物も含めた全生物の世界でわれわれが見るものは、脊椎動物、哺乳類、人間へと向かう一つのベクトルの上での進歩あるいは停滞ではなくて、ベクトルでもスカラーでもない、パターンの相違なのである。」

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動物の種というものが、一つ一つユニークな生存のパターンだという認識が必要。

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posted by Fukutake at 09:53| 日記