2019年11月28日

人間存在の意義

「人間とは何か」実存的精神療法 V.E.フランクル 山田邦男監訳
 春秋社 2011年
(その1)

p122〜
 「…次のような思考実験をしてみるとよい。すなわち、一人の音楽を愛する人間がコンサートホールに座り、彼の好きなシンフォニーの最も感動的な小節が今まさに耳に響きわたり、その結果、ひとが最も純粋な美に触れたときに体験するような、あの身震いするような感動に打たれている、と想像しよう。そして、このような瞬間に、誰かが彼に、あなたの人生に意味があるか、と問うたと想像しよう。このとき、問われた人間は、きっと、このような恍惚とした瞬間を体験するだけででも生きる価値はある、と答えるにちがいないであろう。なぜなら、それがほんの一瞬のことであったとしても、その瞬間の大きさだけで一生涯の大きさが測られうるからである。… 人生の有意味性についても、その頂点が決定的なのであり、この比類のない瞬間が人生全体にさかのぼって意味を与えるのである。
 われわれの考えによれば、さらに第三の可能な価値カテゴリーが存在する。このさらなる価値グループは、人間が自分の制限された生活に対して取る態度によって実現されるものである。人間が自分の狭められた可能性に対して、みずからの態度を決めるというまさにそのことによって、新たな独自の価値領域、しかも確実に最高の価値に属するような価値領域が開かれるのである。…われわれは、この価値を態度的価値と名づけることにしたい。というのは、ここでは、人間が変えることのできない運命に対してどのような態度をとるかということが問題だからである。このような態度価値を実現する可能性は、それゆえ、人間がみずからそれを引き受け、それを担うほかはないような運命に対峙する場合に常に生じるのである。すなわち、ここでは、人間が運命をいかに担い、それをいわばみずからの十字架としていかに引き受けるかということが問題なのである。この態度は、たとえば苦悩における勇気、没落や挫折においてもなお失わない品位といったものである。
 (これによって)人間の実存は本来決して実際に無意味になりえないことがただちに明らかになる。人間の生命は「最後まで」その意味を保持している。それゆえ、人間が息をしているかぎり、人間に意識があるかぎり、彼は価値に対して、少なくとも態度価値に対して、責任を担っているのである。価値を実現するという人間の義務は、その存在の最後の瞬間に至るまで、人間から離れることはない。たとえ価値実現の可能性がどれほど制限されていようとも、まだ態度的価値を実現することは依然として可能である。すなわち、人間存在とは意識存在にして責任存在であるという命題の妥当性も明らかになるのである。」

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間際のきわにどういう態度をとるか?
posted by Fukutake at 11:34| 日記

2019年11月27日

人とのつながり

「レナードの朝 (Awakenings)」オリバー・サックス 春日晶子訳 
 ハヤカワ文庫 2000年
(その1)

人間的つながり

 p250〜
 「本書の米国での初版で、私はロランド・Pについて、後書きに次のように書いた。「一九七三年の初め、ロランド・Pはやせ衰えて死んだ。フランク・Gや他の患者同様、検死では死因はわからなかった。こうした患者たちは、希望を失い絶望したことで死んだのだ、と私は考えずにはいられなかった。表に現れた死因(突然の心拍停止でもなんでも)は、本人が求めていた最後のとどめの手段でしかなかったのだ」このあいまいな後書きについて、もっと詳しく説明することが、必要であるとともに適切だろうと考えた次第である。

 ロランド・Pの母親は驚くほど理解があり、息子に誠心誠意尽くしていた。幼少時に、知能に問題があるとか狂っていると決めつけられた彼をいつも守ったのがこの母親だった。…ところが一九七二年の夏に関節炎が悪化し、息子に会いに来られなくなってしまった。母親が姿を見せなくなると、ロランドはひどく動揺した。二ヶ月の間嘆き続け、衰弱し、落ち込み、怒り、体重も二〇ポンド減ってしまった。だが、幸運なことに病院スタッフの一人であるある女性の理学療法士のおかげで、彼の喪失感はやわらいだ。この女性は職業的な技術と暖かく愛情深い性格を兼ね備えていたので、一九七二年の九月には、ロランドは彼女と親しくなり、以前は母親にそうしてきたように彼女を頼るようになった。…彼が必要とする愛情を与えたのだった。その優しさのおかげで、彼の心の傷は癒されたかにみえた。
 不運なことに、一九七三年の二月初め、ロランドの愛する理学療法士は(病院のほぼ三分の一のスタッフとともに)解雇されてしまった。それを聞いたロランドはひどくショックを受け、事実を否定して信じようとはしなかった。でもこのとき彼は意識と理性の世界では喪失を乗り越えて「それでも」生きていく決意をしたようにみえた。だが、もっと深いところでは、二度と乗り越えられない心の傷を負ったのだと考えられる。
 二月の中旬には、ロランドは悲嘆と落胆、恐怖、怒りが入りくんだ重い精神衰弱をみせた。愛情の対象を思い焦がれ、彼女を探し続け、悲しみと心のおたみに繰り返し打ちのめされた。悲しみと思慕、そして彼女に恋い焦がれる気持ちと同時に、自分は裏切られたのだという激情にも駆られていた。…
 二月の末近くなると、ロランドの様子は再び変わり、会話することもほとんどできない、死体にも似た無感覚の状態になった。ロランドは食欲を失い、食べることをやめてしまった。希望も失望も表さなくなった。夜は眠ることもなく、よどんだ目を大きく開いたまま横たわっていた。
 彼が口にした最後の言葉は、「放っておいてくれ!おれが悲しくて死にかけているのがわからないのか?頼むから静かに死なせてくれ!」その四日後ロランドは眠っている間に死んだ。」


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孤独感による死
posted by Fukutake at 09:12| 日記

2019年11月26日

驚くべき手話

「手話の世界へ」 オリバー・サックス 佐野正信訳 晶文社 1996年
(その1)

聴覚障害について
p42〜

 「相当の天分に恵まれていたデロージュといえども、「概念」を思い描いたり、「論理的話法」を実践したりするには、まず手話を習得しなければならなかった。」
  『私たちは漫然と単語や記号(サイン)を並べて発話や思考を行なっているのではなく、ある特定の仕方で単語や記号を相互に参照させあうことによって発話や思考を行なっている。… その各部の適切な相互関係がなければ、口頭の談話は、命題(プロポジション)を具体化することのない、たんなる名前の連続、単語の集積になってしまう。… 発話の単位が命題である。したがって発話の喪失(失語症)は、命題化する力の喪失である。… 発話しなくなる患者は、声を出して話せないという一般的な意味において発話を失っただけでなく、その最大限の意味において発話を失ったのである。私たちは自分の考えていることを内なる自己に伝えるためにも発話をおこなっている。発話は思考の一部なのである。』

 … この種の聴覚障害は、何らかの手だてが講じられないと、失語症にも匹敵する、事実上言葉の存在しない「命題化」の不可能な情況、思考それ自体が破綻してしまうことさえある情況をきたしかねないのだ。言葉をもたないろう者は、そのまま放置されると、最悪の場合、一見したところ愚鈍まがいの人間になってしまうかもしれない。<手話>の導入によって「はじめて知性への…扉が開かれる」−− こう記したシカール神父は、詩的であるばかりか、正当でもあったのだ。
 (ある唖者は言う)
  『私たちのあいだで使われている手話は、あらゆる対象の忠実なイメージであり、たえず観察や分析をおこなう癖をつけてくれるので、概念を正確に伝えたり、理解をいっそう深めたりするのにとても適している。手話は生き生きとした言葉である。手話は気持ちを表現し、想像力をはぐくんでくれる。強く激しい感情を伝えるのに手話ほど適した言葉はほかにない。』」

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驚くべき手話の世界

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posted by Fukutake at 14:16| 日記