2019年10月25日

具体性

「妻を帽子とまちがえた男」 オリバー・サックス 
 高見幸郎・金沢泰子訳 晶文社 1992年
(その2)

具体性
p295〜
 「数年前知恵遅れの人たちの治療をはじめたとき、憂鬱な仕事かもしれないと思い、私はルリアに手紙を書いた。おどろいたことに、彼からの返事はとても肯定的にこう書かれていた。発達の遅れた人々ほど彼にとっていとしく思われる患者はいない、と。また、先天性疾患研究所ですごした年月は、生涯のなかでもっとも興味深い時期であった、と。最初の臨床記録(『子供のことばと精神発達過程』一九五四年)の序文でも、彼は同様の感情を述べている。「もし自分の本についての気持ちを述べることが許されるなら、私はこの小著のなかに書かれている人たちにたいしていつも感じていた温かい気持ちのことをぜひ付記しておきたい」
 ルリアのいう「温かい気持」とは何なのだろう。これは明らかに個人的で情緒的な表現である。患者たちがどのような知的障害をもっているにせよ、彼ら自身が反応しなければ、あるいは彼ら一人一人が真の感受性をもち情緒的に反応することができなければ、この「温かい気持」を感じることは不可能だったろう。…いったい、知恵遅れの人たちに認められる、とくに興味深いこととは何なのだろう? 
 それは心の「質」と関係するものである。それも、すこしも損なわれることなく、かえって高められてさえいる心の「質」である。彼らの心は、たとえ「知能的な欠陥」はあっても、それ以外の点では精神的に興味深く、完全とさえ言えるほどのものである。知恵遅れの人々のなかにはっきりと認められるものは、概念的なものなどではない心の「質」なのである。(子供や「未開人」の心に接した場合もおなじことが言える。もっとも、クリフォード・ギアッがくりかえし強調しているように、知恵遅れ、子供、未開人の三者は、けっして同等にはあつかえない。未開人は知恵遅れでもなければ子供でもないし、子供の文化は未開人のそれではないし、知恵遅れの人々は、けっして未開人でも子供でもないからだ。)しかし、重要な類似点もある。ピアジェが子供の心の研究で明らかにしたこと、またレヴィ=ストロースが「未開人の心」の研究で明らかにしたことは、かたちこそ異なるが、知恵遅れの人々の心や精神世界には認められることなのである。

 ではいったい、知恵遅れの人々に特徴的な心の質とは何か? 人の心をつくあの無邪気さ、透明さ、完全さ、尊厳は何から生まれたのか。それに特有のものとはいったい何なのだろう?

 一言で言えば、それは「具体性」ということである。彼らの世界は生き生きとして、情感するどく、詳細にわたり、それでいて単純である。具体的だからである。抽象化によって複雑になることも、希薄になることも、統一されてしまうこともないのである。」

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具体的であること。

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posted by Fukutake at 12:19| 日記

2019年10月24日

大統領の嘘

「妻を帽子とまちがえた男」 オリバー・サックス 
 高見幸郎・金沢泰子訳 晶文社 1992年
(その1)

大統領の演説と失語症患者

p153〜
 「私をふくめ失語症患者に接している者がしばしば感じることは、彼らには嘘をついても見やぶられてしまうということだ。失語症患者は言葉を理解できないから、言葉によって欺かれることもない。しかし理解できることは確実に把握する、彼らは言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない、その表情を彼らは感じとるのである。
 同じことは犬についても言える。そこでわれわれは、言葉に気をとられて直感による判断がおぼつかないときには、しばしば犬をつかう。本当かどうか、悪意があるのではないか、まともなのは誰かを知るために犬を使うのである。
 犬にできることは失語症患者にもできる。しかもはるかに高度なことができるのだ。「口では嘘がつけても表情に真実があらわれる」とニーチェは書いているが、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにたいして、失語症患者はとても敏感である。たとえ相手が見えなくても −−盲目の失語症患者の場合まぎれもない事実なのだが −− 彼らは、人間の声のあらゆる表情すなわち調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなど聞きわけることができる。本当らしく聞こるか否かを左右するのが声の表情なのである。
 失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力を持っている。言葉を失っているが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな −−と彼らには映った−− 饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。
 だから大統領の演説を笑っていたのである。」

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嘘を感じる能力
posted by Fukutake at 08:54| 日記

2019年10月23日

アルチュール・ランボー

ランボオ詩集より 「酔いどれ船」または「酩酊船」訳詩 

冒頭の二節

1) 堀口大學 訳 (新潮文庫 p78 1951年)

非情の河また河と下りゆくに、
船曳が綱を引く手の覚えいつか失せたり、
喧(ののめ)き喚く赫肌の蛮人ら、水夫(かこ)を裸になして、
彩(いろど)れる杙(くい)に釘付け、射殺して果てなば、

フラマンの小麦、イギリスの綿花運ぶ我に、
乗組の憂き目など関係もなき空事ぞ、
船曳ら去んでより、擾々のはたと熄みて、
河はわが思いのままに、我を運びゆきぬ、


2) 中原中也 訳 (岩波文庫 p100 2013年)

私は不感な河を下って行ったのだが、
何時しか私の曳舟人等は、私を離れてゐるのであつた、
みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的に引ッ捕へ、
色とりどりの棒杭に裸のままで釘附けてゐた、

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿の荷役には
とんと頓着してゐなかった
曳舟人等とその騒ぎとか、私を去つてしまってからは、
河は私の思ふがまま下らせてくれるのであった。


3) 小林秀雄 訳 (創元選書 p179 1972年)

われ、非情の河より河を下りしが、
船曳きの綱のいざない、いつか覚えず。
罵り騒ぐ蛮人は、船曳等(やつら)を標的(まと)に引っ捕へ、
彩色(いろ)とりどり立ち並ぶ、杭に赤裸に釘付けぬ。

船員も船具も今は何かせん。
ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ。
わが船曳等の去りてより、騒擾(さわぎ)の聲もはやあらず、
流れ流れて思ふまま、われは下りき。


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いずれも名調子。

原文
「Le BATEAU IVRE
Comme je descendais des Fleuves impassibles,
Je ne me sentis plus guide par haleurs:
Des Peaux-Rouges criards les avaient pris pour cibles,
Les ayant cloues nus aux poleaux de couleurs.

J’etais insoucieux de tous les epuipages,
Porteur de bles flamands ou de cottons angais.
Quand avec mes haleurs ont fini ces tapages,
Les Fleuves m’ont laisse descendre ou je voulais.

…」
「RIMBAUD」Paris 1972
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posted by Fukutake at 11:08| 日記