2019年09月04日

不幸比べ

「悪と魔の心理分析」 満たされない心の深層を探る  頼藤和寛 
 大和出版 1998年(その2)
p156〜

 「もちろん被害者が直接の加害者に対して、債権者として強い立場をとるのは合理的である。しかし、ここで指摘している心理は、いかなる被害者・被災者であれ、周囲の無関係な人々に対しても一種の優位に立てるかの幻想を指している。これは合理的ではない。
 したがって、被害者の心理のうちに、「世の不幸の相当部分を自分が受け持ったのだから、周囲はその分助かっているはずだ」という債権者意識が潜み、周囲の幸運な人々の内心には、「自分でなくてよかった。しかし、なんとなく申し訳ない気分もする」という債務者意識が非合理的に発生しているのに違いない。かくして被害者たちは要求がましくなる。
 本来、牢屋で最悪な重罪人が牢名主になり、病室で最悪な病気持ちが幅をきかすのは、おかしな話なのである。
 「なんだ、新入り。娑婆でなにをやらかした?ふん、押し込みか。らちもねえ。こちとら自慢じゃねえが、世の中の悪いことでしてねえことはねえんだ。恐れ入りやがれ」
 あるいは
 「あのね、あなた、胆石切ったぐらいでそんなに痛がってはダメですよ。わたしなんざ、大腸ガンを切ったあとに腹膜炎起こして、それが治ったと思ったら、今度は癒着で腸閉塞。それを切ったあと、今回なんか人工肛門の付け替えなんですからね」
 これではもう不幸比べである。
 人間は、どうも自分が経験した不幸を、世界最大の不幸と思いたがるようなところがある存在である。ちょうど自分の犯罪が最悪で、自分の病気が最重病であると思いたがるのと似ている。しかも不幸を経験することで、なんらかの特権が得られるかに錯覚しやすい。
 しかし、元来そんなことは自慢にならないのだ。不幸にも「上には上がある」のだし、そもそも主体的に選んだ不幸でなにのだから、単に運が悪いというだけなのである。運の悪さまで自慢したり、世界に対して免責や補償まで請求できる、正当な権利を手に入れたと思い込んだりするのは、人品の卑しさに由来する「悪」の一種ではないか。
 まして、被害者という立場を最大限に活用して、世間を恫喝するような居丈高さを示すなら、すでにして立派な加害者なのである。


-----
確かに思い当たることもあります。

posted by Fukutake at 12:38| 日記