2019年08月28日

社会の脳化

「がんから始まる生き方」養老孟司他 (病を得て、人は成熟する) 
 NHK出版選書 2019年

 p151〜
 「世界が意味で満たされてしまうというのは、私が30年前から言っている「社会が脳化する」とか「人間が自分の脳の中に閉じ込められている」ということと同じです。
 都会は典型的です。道路もビルも、都市の人工物はぜんぶ人間が頭の中で考えたのを配置したもの。自分の内部にあるものが外に出たものだから、みんな納得したりする。この自宅の部屋から見える山の形や葉っぱの動きは、そういうものではありません。
 都市計画が進めば進むほど、都市には人工物しかなくなり、人間が考えたものの中に人間が閉じ込められていることになります。
 人がつくるものは、人の脳(が考えたこと)の「投射」です。「脳」は「考える」のです。「人が脳を使って考える」ということは、脳の働きを考えれば、ありません。この場合「人」は主語にならないからです。
 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」ということを「コギト・エルゴ・スム」というラテン語で言った。ここでラテン語の「コギト(考える)」には、主体が独立した語としては現れていない。逆に、訳に出ているように日本語では主語が出てきます。フランス語でも出てきます。むしろ「われ(が)」と補うから、かえって誤解を招きかねなくなったきらいがある。
 コギトは「考えている状態」です。それがすなわち「存在している状態」なのだと、デカルトは気づいたのではないか。「考える状態」こそが「脳の状態」なのであって、「われ」という人間が、主語として介在する余地は、ないのではないか。デカルトがフランス語でなくラテン語を使ったのにはそうした意図も働いていたのでないかと、私は想像します。」

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脳が出しゃばっている。


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posted by Fukutake at 11:19| 日記

学歴

「エマニュエル・トッドで読み解く 世界史の深層」鹿島茂 
 ベスト新書 2017年

(あとがき)から
p227〜
 「私(鹿島茂)などは、下層中産階級の酒屋の倅ですから、酒屋になってもおかしくはなかったのです。にもかかわらず、大学へ行けたのはなぜか。別に勉強ができたからということではないのです。
 うちの親父もかなり勉強はできたようですが、世代的に、社会環境的に酒屋で終わりでした。その次の、私くらいの世代から、下層中産階級も学歴にアクセスしてよろしいという時代環境に変わってくるわけです。
 なぜそのようになったのか。
 トッドの家族類型論などを知ってわかったのは、「直系家族の順送り」ということが起きるからです。直系家族は外にはじかれた次男・三男が学歴にアクセスすることができて高収入を得ることが、立身出世として社会に認知されていました。その結果、それまで学歴にアクセスしなかった、より下層の人たちもアクセスを始めるのです。
 学歴にアクセスすると、それまでごく狭い範囲でしか見えなかった社会が、広く見え出します。それは必ずしもよいこととは言えないのです。なぜなら、自分の近くにいた人間が全員バカに見え、遠くにあるものほど輝いて見えるという遠方指向性が生まれるからです。フランスへの憧れなど、そうした遠方指向性の典型です。…
 それに対し、こうした立身出世のドリームが消滅してしまったのが、現在の日本です。というのも、少子化スパイラルが働いて、直系家族の家には次男・三男が生まれなくなっているからです。スタティックな直系家族社会において社会を変化させる唯一の要因が次男・三男でしたが、これが消えてしまって、社会はより窮屈になってきているのです。
 それに対して、低収入だけども自由があるのが西日本に多い起源的核家族化をルーツに持つ人々です。彼らは下手をすると社会の底辺からはい上がれないかもしれませんが、しかし、その反面、社会を変革しうる可能性を秘めているのです。坂本龍馬のように。
 ですから、核家族人間が大量に集まってくる大阪から、あるいは坂本龍馬の現代ヴァージョンが現れるかもしれません。期待しましょう。


 ところで、こうした核家族タイプの家庭の出身者の中には、学歴が高収入に結びつかない以上、学校なんか行く必要がないという人がいますが、そんなことを真に受けてはいけません。
 たしかに、学歴があっても高収入を得られるとは限りませんが、社会に流動性がなくなり、格差が固定しようとしているいま、学歴がなければ絶対に高収入は得られません。学歴を得たからといって高収入に結びつくわけではありませんが、学齢がなければ高収入を得る可能性は非常に低くなります。
 「学齢がない私」より、「学歴がある私」のほうが、より高収入を得られる可能性が高いのは絶対的真理です。高学歴ワーキングプアになっても仕方がないから大学になんか行かない、などと短絡的に考えないでほしいものですね。」

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まずはいい大学。
posted by Fukutake at 11:15| 日記

2019年08月27日

患者を治療するとは

「ニュートンはなぜ人間嫌いになったのか」−神経内科医が語る『生』のドラマ −  ハロルド・L・クローアンズ著 加我牧子訳 白揚社 1993年

患者を診るとは

 p13〜
 「今日では、医師は科学者である。私たちは科学と、科学の方法論を知っている。そして科学においては、一個の過失は悪いことなのである。私たちは正しい診断を下して、正しい治療に乗り出さなければならない。これは診療過誤の訴訟が恐いからではなくて、間違うことが恐いからなのである。
 この恐怖があるために、医師たちは自分の患者よりは科学的なデータに、より多くの信頼をおくようになる。
 病歴よりも検査結果。
 診断所見よりもレントゲン検査。
 洞察よりは論理。
 直感は絶対ダメ!
 そのために、患者を理解し、看護することは忘れられてしまった。これらは、ラッシュがけっして失うことのなかった事柄であった。それは、かれの職業上の道具だったのである。
 ベンジャミン・ラッシュと彼の瀉血法が有害である、といって世間の攻撃にさらされたとき、彼を弁護したのは瀉血をしている他の医師たちではなく、彼の患者とその家族であった。ラッシュ先生は親身になって患者の治療をしたのだから患者を傷つけることなんかあろうはずがない、と患者たちは信じたのである。仮にラッシュにかかっていた人がラッシュ以外の医師にかかって死ぬ人より多かったとしても、公衆の目には、それはラッシュの過失とは映らないのである。
 その昔、医師ならば誰でも知っていたことを、私たちもけっして忘れてはならない。今日、私たちは患者のベッドサイドで学生に教育をするが、とにかく患者自身のことは半ば無視してしまうことがある。患者の口にすることを聞くのを忘れがちである。おまけにしばしば聞きそこなう。患者の要求は医師の要求と同じではない。その要求は相互に排他的なものではないが、人それぞれに異なっている。患者はもう一度元気になりたいのである。これは、医師にとってもぜひ起こってほしいことなのである。実際にはそれが不可能なことであったとしても、である。それにもしこれが可能だとしても、医師にとってはその前にもう一段階が、「診断」が、ぜひともなければならないのである。
 医師は生命という事実にはまりこんでいる。そうして死という事実にも。患者はこのことを、あるレベルまでは理解している。しかし、患者の優先順位は異なっているはずである。「先生、私の病気を治してくださいよ」というのが患者の要求であって、「どこが本当に悪いのか見つけてくださいよ」ではないのである。」

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治療とは単に数値を改善することか。

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posted by Fukutake at 11:34| 日記