2019年07月31日

修行の意味

「脳が先か、心が先か」 養老孟司ほか 大正大学 まんだらライブラリー
 2009年

 脳と心 p34〜

 「自然な状況で体を使うということを一番よく知っているのは仏教だと私は思っています。お坊さんがお寺の庭を掃いているの、あれは寺をきれいにしているのじゃないですよ。修行です。根本は。修行って何だ。この話をするとつい言いたくなるので言うのですけど、比叡山の千日回峰ってあるじゃないですか。お坊さんが千日、比叡山の山の中を走る。考えてください、あれって何の役に立つんでしょうか。お坊さんが千日、山の中を走り回ってGNPが上がるかって考えてみても、減るだけですからね(笑)。だから、あほかと。やる気にならないでしょう。若い人は笑っていますけど、でも、千日回峰をやると大事にされてしょうがないんです。それは何でですか。

 絶対に日本の経済には貢献したからということではない。じゃあ何に貢献しているのか。私は、今の教育、あるいは人生論の中で一つどうも抜けたのじゃないかと思うのは、「人生がその人の作品だ」という考え方です。自分の生れつきとか能力とか容貌とか財産なんか一切関係ありません。そのひとが与えられた条件の中で自分の意思で精いっぱい生きているときにある状態ができ上がるわけで、それが一つの作品になっている、それを人生と言うのでしょう。
 そう思っていないんじゃないかな。以前、大蔵省があったころ、東大法学部の学生を大蔵省の先輩が勧誘に来た。「今、大蔵省に入るとあんたの生涯賃金は結局十億円だよ」と勧誘していたそうです。そういう考え方の中には、自分の人生そのものが一つの作品だという考えはないですね。それは金を稼ぐ機械ですね。自分の人生がもしある種の作品であるとしたら、千日回峰というのはその中の大事なものであって、それをすませるとあるところに磨きがかかってくるんだという考え方。皆さん方、そういう考え方で自分の人生を生きないと意味がない。そうでしょう。何のためにこんなことをしているのかと後悔をする。作品って、絵描きさんでも彫刻家でも、我々の研究でもそうですけど、でき上がってみるまでどんなものができ上がってくるか、実はわからないのです。だからレオナルド・ダ・ヴィンチは死ぬまで「モナ・リサ」を持って歩いて、手を入れていたんですよ。完成しないから。だから「モナ・リサ」って絵描きとしてのレオナルドの人生そのものであって、皆さん方も実は自分の人生という作品をいつも抱えて歩いているわけです。その作品にしょっちゅう筆を入れたり、あっちを削ったり、こっちをつけ加えたりする。そういうふうな感覚が今は教育からも社会からもかなり消えたんじゃないかという気がする。」


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人生は自分を一生かけてよくしていく行程。結果はともかく。
posted by Fukutake at 13:39| 日記

2019年07月29日

自らを知れ

「新版 発心集」鴨長明 浅見和彦・伊藤玉美 訳注 角川ソフィア文庫
 平成二十六年

 第五(一二)現代語訳 p401〜
 「…またある人が片田舎に行って、身分の低い人の家に泊めてもらったところ、この家の主は八十歳余りだろうか、髪は雪のように白く皮膚は黒く、皺だらけで、目はただれ、歯は抜けて口ゆがみ、腰は二重に曲がって、立ち居のたびに大きく苦しい息づかいで、まさに今日、明日の命のように見えてとても気の毒だった。この老人に「あなたは老いが迫っていて、残りの命もどれほどであろう。歩くのもやっとなのだから、人中に交わっているだけでも苦しいだろう。今は出家の一つもして、念仏を唱え、心静かにしておいでなさい。そうすれば、来世が楽しみであるだけでなく、体も楽でしょう」と言った。翁は「たしかに、今はそのようにさせていただくべきなのですが、どうしても就きたい官職が一つありますので、堪え難い身ながら老いの力で頑張って、ここまで仕えて来ています。私よりもう三歳年上の老人が、私の上役にいます。この人が亡くなった後には、必ず私がその職に就く順番なので、それまで待っているのです」と言うのだった。
 この程度の人物が就く官職を考えてみると。その程度の大したものでないに違いない。そんなことに執着して、今か今かと見つめているとは、罪深く情けないことであります。」

(原文)
 「またある人片田舎に行きて、賤しき家に宿を借りて泊りけるに、この家の主を見れば、年八十余りにやあらん。頭(かうべ)雪の如くして、膚黒く、皺たたみ、目ただれ、口すげうて。腰は二重(ふたえ)にかがまりて、立ち居
るたびに大きに苦しう、いかにも今日、明日のことこそと、いとほしく覚えて、これをすすめていふよう、「汝、老ませりて、残命今いくばくかはあらん。行歩もかなはざれば、人にまじるにつけても苦しからん。今は出家うちして、念仏申して、のどかに居たれかし。さらば、後世の楽しみもしかるべきのみにあらず、身も安からん」といふ。翁のいふやう、「まことに、今はさやうにこそ仕るべきを、なるべき司の一つ侍るにより、たえぬ身に老いの力をはげみて、かくまで仕へ侍るなり。我よりも今三年がこのかみなる翁、上臈にて侍り。かれ、人まね仕りなん後は、必ずその司にまかりなるベければ、それまで待ち侍るなり」といひけり。
 さやうの者のなる司、思ふにさばかりにこそアルらめ。そのことに執をとめて、今や今やとまぼりおりけん、罪深くあわれにこそ侍れ。」

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posted by Fukutake at 14:19| 日記

2019年07月26日

炎の反骨精神

「楠木正成」 植村清二 中公文庫 1989年

 正成の人物

 p216〜
「… 足利尊氏が後醍醐天皇から離反して幕府を建設した際に当って、正成は和泉・河内の守護であった。恩賞の過不足は別問題として、少なくとも正成にとっては過去の潜勢力は公式に確認されたのである。地位の低い場合には身を軽んじても、地位が高くなれば、身を惜しむようになるのは人の世の常である。既に中興の政治の失敗によって、その久しく維持できないことを明らかに看取した以上、その地位と所領とを保有するために、もし能うべくばこれを拡大するために、足利氏の下に走ることは、正成にとっては必ずしも困難ではなかったに相違ない。事実当時の多数の武士は、極めて功利的であって、ほとんどすべてその利益を守るために、情勢の変化に応じて、あるいは宮方にあるいは足利方に、その態度を変化させているのである。赤松氏は播磨の作用庄に地頭から起って、宮方に馳せ参じたものであるが、のちに足利氏に属して、山陽道の東半を支配する大身となった。また一つの仮想であるが、正成が時局の趨勢を大観して、足利氏に属したならば、その地位は必ず赤松氏より下に在ることはなく、室町時代を通じて名門大姓の大なるものであったであろう。これはあるいは自家のために図って最も巧みなものであったかもしれない。何となれば何となれば楠木氏には新田氏のように足利氏と両立しない理由は存しないからである。「梅松論」によると、延元の際には一族さえ兵事を難儀したという。しかも正成はこの情勢を認めながらも、あくまでもその操持をかえず、「太平記」の作者の言によれば、死を善道に守って、挙族王事に殉じた。
 多くの場合人は打算によってその行動を決定する。しかしまた人はある場合には打算を超えて行動する。これはあるいは元弘以来恩寵を蒙った天皇との情誼が切であって、離るべからざるものがあったためでもあろう。しかしこれを単に名分あるいは情誼のみで解釈するのは誤っている。この正成の行動の根底には、やはり元弘の挙兵の際と同じく、新しい権力に対する反抗的精神が、火焔の如く烈々として輝いていることを否定することはできないのである。」


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滅ぶとも名を惜しむ
posted by Fukutake at 10:06| 日記