「大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか」 しばやん
文芸社 2019年
(その2)
「あとがき」より(p298〜)
「いつの時代もどこの国でも、侵略する意思のある国から国を守るには、相手が戦うことを断念せざるを得ない状況を作ることが必要である。この時代(*戦国時代〜徳川初期)に、多くの寺社が破壊され、多くの日本人が奴隷として世界に売られていったのだが、それでもわが国が西洋の植民地とならなかったのは、当時のわが国の武士が勇敢で、西洋よりも優秀な武器を大量に保有していたことが重要なポイントであることは言うまでもない。しかし、さらに重要なのは、スペインやポルトガルにわが国を侵略する意思があり、その宣教師がその先兵の役割を担っていることを早くから察知していた為政者がわが国にいたことである。また、キリスト教が伝来する六年も前にわが国に鉄砲が伝来したということも見逃せない。わが国は鉄砲伝来からわずか一年でその製造に成功し、その後近畿を中心に大量生産体制を早期に整え、多くの大名がすでに大量の鉄砲を保有していたことは宣教師たちにとって想定外であったに違いない。
宣教師たちは武力で日本を征服するこのとの困難さを認識し、まずはキリスト教の布教を強化し、キリシタン大名を支援することで日本の分断化をはかる。その上で、キリシタン大名の助力を得てシナと朝鮮半島を征服し、機が熟すのを待って、朝鮮半島から最短距離で日本を攻撃し、キリシタン大名を味方につけてわが国を二分して戦おうと考えていたことが、彼等の記録から推測できる。
しかしながら、恐らく秀吉はその魂胆を見抜いていて、天正一九年(1591年)フィリピン、マカオに降伏勧告状を突き付けてスペイン・ポルトガルを恫喝し、その翌年には朝鮮に出兵(文禄の役)しているのだ。
秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉の征服欲が嵩じて、無意味な戦いをしたというニュアンスで解説されることが多いのだが、当時の記録を読めば秀吉は、スペイン・ポルトガルに先んじてシナを攻めることにより、両国がわが国を侵略する芽を摘もうとしたと考えるほうが妥当であろう。
…
江戸幕府は、布教を条件とせず貿易だけでアプローチしてくるオランダ・イギリスに次第に傾斜していき、ついにはキリスト教禁教令を出すに至った。そしてオランダの助力により島原の乱に勝利したのち、幕府は海外貿易の相手国を、オランダ・中国に絞り込み、貿易港を長崎の出島に限定して、出入国を厳しく規制したのである。」
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2019年04月25日
太閤の慧眼、大御所の胆力
posted by Fukutake at 13:29| 日記