2019年04月22日

伊豆の大患

「夏目漱石」十川 信介  岩波新書 2016年

(死からの生還)p199〜

 「漱石はこの得難い体験(大患)を「BLISS(ブリス)」として『思い出す事など』(とぎれとぎれで、明治四十三年十月二十九日−四十四年二月二十日)を東京・大阪両朝日新聞に連載した。彼は当日の夕方から翌朝までのありさまを残らず記憶していると思っていた。だが、妻が代りに書いた日記を読んで、自分が「実に三十分の長い間死んでゐた」ことに愕然とした。急に胸苦しさに襲われた彼は、「折角親切に床の傍に坐ってゐて呉れた妻」に、暑いからもう少し退いてくれ、と「邪険に命令した」。彼がこんな反省の言葉を妻に関して用いることは滅多にない。彼は寝返りを打とうとして脳貧血を起し、妻の浴衣に吐血したことも、坂元が「奥さん確かりしなくては不可ませんと云った」ことも、何も覚えていない。
 多少の意識が戻ったのは、おそらくは二人の医師が脈を取りながら、ドイツ語で交わした会話を聞いたときである。二人は「弱い」「駄目だらう」「子供に会わしたら何(ど)うだらう」などと話していたという。彼は生と死との関係が「如何にも急劇で且つ没交渉」なことを深く感じた。「生死」とは「大小」などと同様に一括りにされるが、これほど「唐突なる懸け離れた二象面(フューゼス)が前後して」自分を捉えた以上、それらを同性質のものとして関係づけることがどうして出来よう。彼は若いころから生死に敏感だったが、それが切実な問題として住みついたのは、この大病以来である。
 「生を営む一点から見た人間」は、相撲取りが四つに組んで静かに見えるのと同じで、腹部は波打ち、背中は汗だらけである。命のある限りこの苦しみが続くとすれば、人間は「精力を消耗するために」生きているようなものだ、と考えてきた彼は、病気になって、それが覆されたことを自覚した。多くの人々の親切が、「住み悪(にく)いとのみ観じた世界に忽ち穏かな風」を吹かせたからである。彼は病に謝し、「余のために是程の手間と時間とを惜しまざる人々に謝した。さうして願はくは善良な人間になりたいと考へた」。
漱石は十月十一日に特製の担架に乗せられて帰京し、そのまま長与病院に移った。雨中の出発だったので、担架は白布に覆われ、彼は日記に「わが第一の葬式の如し」と記した。三島からは一等室を一輌借り切った。
 長与病院は病室を改装して待っていた。だが、院長に会うことは出来なかった。翌日鏡子に聞くと、院長は先月五日に亡くなり、森成医師が帰京したのは、その危篤と、葬儀のためであることがわかった。「治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じた人は既に死す。驚くべし。」大塚保治夫人で作家の大塚楠緒子も十一月に死亡した。

     逝く人に 留まる人に 来たる雁 」

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「一等病室の患者三人のうち、二人は死亡、漱石だけが生きて翌年二月二十六日に退院した。」
posted by Fukutake at 09:39| 日記