2019年04月18日

アランのからプラトンへの問い!

「プラトンに関する十一章」 アラン 森進一訳 ちくま書房 1988年

第九章 ギュゲス より
 p145〜

 「…ある日、二人の若い獅子たちが、耳を傾けている、世にときめこう、征服しよう、という野望に満ちた炎を燃やしながら。それは、プラトンの兄弟であるアデイマントスとグラウコンだ。…彼らアデイマントスとグラウコンも、怖ろしい物語をつきつめようとして、お互いに突進するのである。そして、「兄弟は兄弟を助けるものだ」とホメロスも語っているように、プラトンよ、君も彼らから遠くはなれているわけではない。
 さて、彼ら二人はこう言うのだ。年老いたまじめな人びとが、彼らのつくった法律を少しとび超えたり、少し逸れたりしながら、あまりそれを気にかけないことがある。いや、かりに気にかけたとしても、それは彼らにとって、保証された栄光を、いま少し自由にふるまわせるゲームにすぎないのだ。しかし、まだこれという仕事もなしとげていないし、またなんの約束も立てていないわれわれにとっては、未来のすべては、剣の切れ味にかかっているのだ。甲か乙かのどちらかに、心命を賭することが問題なのだ。なぜなら、この年ごろは、何事をも徹底的にやらずにはおられないのだから。そこでつまりー彼らはかわるがわる語るのだーいっさいのことが、この地上においても、かの天上においても決定されていなくてはならないのだ。神々と人間の最後の言葉が必要なのだ。後悔もなく本能に従い、欲望や快楽の赴くまま、名門の出であるとか、大衆の推挙とか、ありとあらゆる手段によって不正という不正を行うべきか。あるいはそれとも、もしそれがより善いことであるなら、いっさいの正義を行うべきであるか。ところでソクラテスよ、正義を行うことが善いことだとわれわれに語るだけでは充分でない。君がそれを証明しなくてはならないのだ。君は(不正に対し)非難そのものになっているが、その非難が、(正義の善さを)明らかに語らなければならない。なぜなら、われわれの講義ノートやさまざまな書物の徳、われわれの教師、詩人、祭司たちの説く徳とは、用心、恐怖にほかならない。またいったい何を怖れての恐怖だというのか。」
 …
 「そこで、正義のひとと不正のひととを、無理やりに切り離したまえ。不正なひとは、人間と神々に崇められ、権力、朋友、富、長寿、を保証されるとしよう。さてそのうえで、彼は、決心を誤っているのだということ、我とわが身を損なっているということを、われわれに証明したまえ。君(ソクラテス)がそのように信じていることは、われわれも知っているのだから。反対に、正義のひとをも赤裸々に描きたまえ。彼は人間や神々に軽蔑され、まさに彼の正義ゆえに、投獄され、十字架にかけられるとしよう。そしてそのうえで、彼が立派な道を歩んだということをおよび最善最知の友なら彼の為に尽くしたであろうように、そのように立派に、彼自身を生かしていたということを、われわれに証明したまえ。」

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posted by Fukutake at 17:08| 日記