2019年04月04日

認識の鬼

「賢い利己主義のすすめ」ポスト・モラリズム宣言  頼藤 和寛 
 人文書院 1996年

生命以上の価値 p237〜

 「… われわれはすでに物心つく以前から一つの「いのち」を得ており、しかも、それが刻々と減っていく日向の氷みたいなものであるとするなら、溶けてなくなるまでにその「いのち」の使い道を方向づけねばなりません。科学が教えてくれず、宗教も所詮は護教的で既製服的な答えしか持ち合わさぬとするならば、われわれ一人一人が、自分にしっくりくるような「寿命の用途」を見出さねばならない。そして、「三度のメシより好きなこと」や「命を賭してもやり遂げたいこと」を、自分なりに発見した人は、それこそ祝福された者なのです。そうした人生の目的が、歴史において、また宇宙において、いかほどの意味があるのかと問うのは、野暮というものでしょう。
 いずれにせよ、自分の「命より大切な」価値や指針を持てるならば、われわれの精神は活性化されます。それが幻想であろうが誤解や迷信であろうが、われわれの心身に対する作用が好ましいことは確かなのです。そうした「生命より大切な価値」をみずから構成した元気者を、個人的な妄想とは知りつつも、われわれは賞賛してあげてもよい。ただし、その人が自分以外の生命を軽んじたり粗末にしたりしないという、例外なしの条件において、です。てめえの理想に殉じるのは勝手だとしても、他人の死活まで道連れにされてはかなわない。これはもう価値とか倫理とかいって済むレベルの問題というより、最低限の「現存在エチケット」みたいなものです。
 われわれ人間は、なにを考えようがなにをしでかそうが、すべて自分の心情的満足を求めようとする利己的反応としてしか発し得ない生き物なのですから、せめて自分以外には過大な迷惑のかからないように配慮すべきでしょう。どんな立派な目的のためであれ、それに協力しない人々に被害を及ぼすことは正当化され得ない。その「立派な目的」も、所詮は言い出しっぺ個人の心理的事情に基づいた快楽主義に他ならないからです。目的が「人々を救うため」であっても、動機は「救いたい」という己の欲望を満足させたいためや、「救い主」という自己像を確認したいためなのですから、畢竟するに自己の満足を求めていることになります。人助けをはじめとするさまざまな利他行が趣味なら、それはそれでよろしいが、趣味や道楽ならそれらしく、あまり大きな顔をして世間から有形無形の見返りを期待なぞするなと言いたい。
 たぶん人間には、自分に被害が及ばないかぎり、他人の思想、趣味、生き甲斐、精神保健の工夫について口をはさむ権利などないのです。われわれに許されることは、単に「こうすればこうなる。ああすればああなる」を提示したあとで、「さあ、あなたはどうするか」と問うことだけなのでしょう。」

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posted by Fukutake at 11:37| 日記